本橋ゆうこ

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表示できましたーーー!!!☆(号... < 一覧 > …我ながらヒドすぎるッ!この顔!...

死体のはなし(活き活きと死につつあるもの)

未来・過去


突然ですが、皆さんは今までに何体の「死体」をご覧になりましたか?

この言い方が即物的過ぎて嫌だ…という方もいるかも知れませんね。。
では、改めまして。



皆さんは、これまでに何人くらいの死者の「顔」を思い浮かべることが出来ますか?



あぁ、またもぐがヘンなこと言ってるよ…とか思われるんでしょうねー。。(笑)
いいですよ、別に☆
こういうやつなんです。諦めて受け入れるか、素通りでお願いしますっ♪

※マジで今回の話は「私ダメそう…」と思った人は絶対ここで止めておいて下さい!



私のばあい、そうですね~ええと、今だいたい年齢的には最後に学校を出てから10年ちょいだと思うんですが…現時点で

はっきりしているところで5~7人、くらい?

ですか。。。とりたてて多くも、少なくもないかと。
何でくらい?なんだよ、って話ですが。
これ、自分でも不思議なんですけど、今、指折って数えようとしたんですけど、どうしても途中からわからなくなるんですよ。。
手が動かなくなる。いや、意識が「数える」ことを拒否する?
ので、大体なんですが、そのくらいだと思います。すいません。
はっきりしないところまで含めると、もう少し増えるかも知れませんが。
(旅先で「…え?あれって、どっち…??汗」的なこともありましたんで)


ここでいう「はっきりした死者」というのは、「顔」という具体的過ぎる言葉で表した通り、その方の存在をかなりリアルに思い出せる、という条件つきです。
故人の生前の姿を良く知っている、とか。
親しく言葉を交わしたこともある、とか。
亡くなった現場にまさに身近に立ち会った、とか。
私に関して言うと、上記の5~7名?の方々について、ちょっとヘンな言い方ですが

デスマスク(=死に顔)が描けるくらいに

間近に、かつ詳細に、拝見しています。
ていうか実際に一名の方は描かせていただきました。「デスマスク」。
詳しい経緯は、語る意味も無いのでここでは割愛しますが。

それらの方の死に顔のことを思い出しながら、私が何か不気味に思ったり、怖かったりということは、今は特に無いです。
…むしろ、限りない懐かしさ、を感じる程です…。

その人たちの生きていらした頃の優しいふるまいや、穏やかな声や、ご家族との楽しそうな様子…などを、私が思い出せるから、です。


それでいて、私が「死体」そのものについて思い出す時、そこには全く違った感情があります。
それを最も端的な言葉で表すとすれば、

「畏れ」と「異質」

でしょうかね…。
そう。
生きている肉体と、死んでいる=生きていない肉体というのは、完全に別のもの、なのです。

でも、案外とそのことを普段の我々は意識してはいない。



どうしてブログにこんなことを書く気になったのか、正直自分にもわかりません。
別に最近身近に不幸があったとかでもないし。

ただ、時々こんな風にして、どうしても、無性に「書かなければ」という気になる。

そういう時は、他にどんな急ぎのことをしていようが矢も盾もたまらなくなって、気が付くと真夜中になっても平気で3時間も4時間もキー打っていたりする。
今日も、そんな日かも知れません。。

そういう時の私は、何故かとても焦っています。
今、これを書かないと二度と機会が無くなるような、そんな気持ちに追われている。
実際、私はずっとここ(LWでも、他のブログでも)にいられるとは思ってない。
いつか皆に私の声は届かなくなってしまう、その時はいつやってきてもおかしくない…そう、常に考えています。

だから、「書かなければ」と思ったときには、すぐに書くことにしてるのです。
まあ、人に読んでもらえるチャンスもそうある訳じゃない、って話でもありますが☆
(ふと気が付いたら何故か例の記事がランキングに入っちゃってましたね…笑)




いつからかはわかりませんが、私たちのこの社会では「死」がとても遠くなった。

「死体」を、この眼で見ることがほとんど無くなった。

学校でも、家庭でも、病院や葬儀場ですら「それ」はひたすら隠されている。
「それ」を語ることは、この蛍光灯に照らされたうすら明るい世界では、絶対的なタブーとされ、もっとアンダーグラウンドな、例えばネット上の「自殺サイト」とかでしか語ることが出来なくなった。
そういう場所で、コンピュータの漆黒の背景画面上で交わされる「死」の話題というのは、どこか抽象的で他人事、のように扱われている気が私にはしています。
※といっても私がそう数多くのアンダーグラウンドなサイトを知ってるわけではありませんが


簡単に「死ぬ」といい、「死のう」といい、「殺してやりたい」と言う。

ネット上でもどこであっても、そういう言葉を使う時、では、その人は本当にそこでリアルな「死体」を思い浮かべているのだろうか?


「死体」の「顔」を知っているのだろうか?


「それ」が生きている人間とどのように違っているものか。
…そうだ。
「死体」とは「物質」であり、極論すれば「もの」のことだ。
拍動がなく、血流がなく、体温がない。その肌に触れた時の感触を知っているのか?
そこには意識は無い。痛みも、苦悶も、感情も無い。
「死ねば楽になれる」というが、そうじゃない。「楽」どころか何も無くなる。

存在が全く別の次元に移行するのだ。


死んだ人間の皮膚の色を知っているだろうか?
それはその人が「最後に生きていた時」の生体の状態をそのまま反映する。

つまり、肝臓が悪かった人の皮膚は”黄疸”で「黄色っぽく」なっており。
末期がんを患っていた人は、肉体の極限まで痩せて「薄い」皮膚をしていて。
(この場合、焼いても骨がほとんど「粉」のようで形を残していない)
比較的若い人が事故や循環器系の疾患などである日突然亡くなった場合は、その通り本当に「眠って」いるような表情と、「健康的な」顔色を見せている。
苦しんだ人は苦しそうな表情を。
安らかだった人は、うっすらと微笑んでいるような。
食事をしてから死んだ人の胃袋の中には丸ごと未消化の食物が残っていて。
風呂に入れなかった人の体表面にはちゃんと垢があって。
毛髪や爪は条件によってはさらに数日は伸びるという。
ガスや薬物で死んだ人間の皮膚は大抵、緑や何かの「奇妙な色」に変化し。
死後、すぐに発見されなかった人間の体は「腐敗」が進んで強烈な臭気を発する。
思わず涙が出るような、胃や食道を素手でギュウッと絞られるような臭い…。



それが、死体のリアルだ。



そのリアルを、どれだけ頭に思い浮かべながら、「死」のことを語っているのか?
時々、私は聞いてみたくなるのです。

ネットの仮想の空間の中で抽象的な「死」とたわむれる人達に、だけじゃない。
「それ」をひた隠しにし、子供や若者の目から覆い尽くせると思っている人達にも。


…どうして子供たちに「死体」を触らせないのですか?


ほんの数時間前までは確かに温かかった皮膚の、異常なまでの「冷たさ」。
柔らかかった体表面の、死後硬直が始まってからの、あの石のような「硬さ」。

閉じられたまぶたを指で開いて見たらいい。
涙腺が機能しなくなったそこには見慣れた瞳の”星のような”輝きはもう少しも無くて、まるで…そう、「ゴム」のようなどんよりとした黒い面だけがあるはずだ。
うっすら開いている目が、もう「目」のように感じられないのは、そのせいだろう。

そして、部屋の中に死体が横たわっている時の、あの絶対権力的な「静けさ」。
何にも影響されず、頑として動かない、あの何とも言えない奇妙な「存在感」…。
それと全く対照的な、残された家族達の激しく嘆き悲しむ姿、音と動き。

どうして「あれ」らをすっかり見せて、自分で考えさせないのですか?

「それ」を知らずに、果たしてどこまで「命」のことがわかるというのか?

もう動かなくなった体を前に、確かに自分は「この人」の温かさ、柔らかさ、穏やかな声を全て知っていて、心の中に持っているのに、今ではそれがもう何処にも無い―…本当にこの世界のどれほど遠くまで探しに行った所で、見つけることも、ましてや取り戻して来るなんて絶対に出来ない…それを知って初めて、人は気づける。



人間が、自分達で自由に出来る「命」など、ただの一つも無いということに。



ミジンコ一匹、この手では作り出せない人間の”限界”。
と同時に、今はもう動かないこの体が、生きて、声を発して、自分を愛してくれた時間がどれほど素晴らしい、かけがえの無いものであったか―…という事実。

だからこそ今ある全ての「命」が、何者にも侵しがたい尊厳を持つのだということ。


大切なものを知らない人間には、失う痛みなどは無いのです。

自分がその相手を失ったら「つらい」と思う、そういう大切な存在。
そして、その大切な相手の体が、「死」を境に「もの」に変わるという現実の非情さ。

その二つが両方そろって、初めて人には「命」のことがわかるのだ、と思います。
初めて、自分以外の全ての生命を哀しく愛おしく思うことが出来るのだろう、と…。


けれど、今はそのどれもが社会の中から失われている気がする。

家族同士であっても繋がりはますます希薄になり。
どれほどネット上で言葉を交わそうと、それは都合が悪くなればいつでも切れる便利な関係に過ぎないと皆が思っていて。
家族の一員のように扱ってるペットすら、死んだらゴミ回収業者に持って行かせる。
「死」は病院のベッドの上に、ほんの短時間しか存在しない。
子供たちは、大人になるまで一度も「死体」に一切、触れることが無い。
ネットで誘い合って集団自殺を実行した若者らの、発見が遅れた「腐乱死体」は、決して世の中に公開されることは無い。



現代の、この社会は、あらゆる「影」を否定している。

人間の底知れないほどの暗い感情も。

死ねば直ぐに腐ってウジがわくという「死体」のリアルも。


だから「生」に現実味が無く、「心」に奥行きが無い。



人間の存在それ自体が、ひどく薄っぺらなのだ。




…それが、私にはこの頃、ひどく危いものに感じられてならないのです。




Memento mori
メメント・モリ:ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句である。日本語では「死を想え」「死を忘れるな」などと訳される事が普通。芸術作品のモチーフとして広く使われ、「自分が死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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[9]

嵯峨雅彦様。。げッ?!シーレの絵を喫茶店の壁にかけちゃうんだ??(汗)…ちょっと、そのセンスは信じられない。。。(呆)
いや、なんか、ようするに落ちつかねえだろう!?みたいな…えぇ~?☆
時代の変化、なんですかねぇ…??(考)
まあ…でも今って蘇我蕭白とかの作品が「カワイイ~」とか言われる時代ですから(爆)。
(しかしショルティのファンサイトは初耳です☆中々興味深い…)

本橋ゆうこ2008/07/04 1:46:31

[8]

ええ、ショルティです。よくご存じで。
小生ショルティのファンサイト作ってますからね。

有名な大作曲家の死といえば「葬送曲」と交響曲の第9番ですね。
もっとも「新世界」の場合はかつては5番になってたんですが。
シーレかあ、あの人も28才で亡くなってしまったんですね。
僕もあの人のタナトスチックな絵は好きですが、たまに行く喫茶店の壁に
かけられているのが、当時と現在の時代の違いってやつですかね。

嵯峨雅彦2008/07/04 0:18:30

[7]

嵯峨雅彦様。。…その思いがけずに亡くなられたという指揮者というのは、もしや映画「地獄の黙示録」で「ワルキューレの騎行」を指揮したショルティという方でしょうか??ダイアナ妃追悼予定の、とのことで…。といって私はあまりクラシックは詳しくないのですが(でもワーグナーは大好きなザ・庶民です☆)。
クラシックということで言えば、昔の有名な大作曲家の多くが「葬送曲」を作曲した直後、もしくはその途中に未完成とかで、けっこう死んでいるそうですね~。考えようによっては、「葬送曲」を作曲することと、「自伝」を書くことっていうのは似ているところがあるのかも知れませんね。
どちらも、自分の人生の中での「終わり」に初めて?真正面から向き合うという意味では。。
絵描きにとっての「死」、の話で印象深いのは、エゴン・シーレですかね。
彼は若い頃からずっと不安に苛まれて、言ってみれば「死の臭い」みたいのがぷんぷんするような一種不気味な(ああファンの人、怒らないで~)絵ばっかり描き続けてた人なんですが。
そんな彼がある女性と結婚して、子供も出来て、そんな家族だんらんを描いたりという、かなりひと頃に比べると「まるい」絵を描くようになって。そんな直後に、当時ヨーロッパで大流行したインフルエンザみたいのにかかって夫婦ともどもあっさり死んでしまう。
画集のその項の解説が何とも言えなくて。
「彼がようやく”死”を忘れかけようとした時、”死”が彼を飲み込んだ」
…確か、こんなような言い方で。誰だったのかな著者は…?
対比があまりに強烈すぎて、忘れられません。。
彼は、作品が後世に永遠に残ることなどを本当にあの時、望んでいたのだろうか?
ようやく手に入れた愛する家族との安らかな時間、をこそ、本心では望んでいたのでは…?
芸術って何だ…?
人生って…?
全ての問いを、「死」はあっけなく飲み込んでしまうのです。

本橋ゆうこ2008/07/03 3:04:50

[6]

これはまた養老先生チックなお話で…
内容が内容なのでこれまた書きあぐねますが、僕が人の死体を見たのは2回だけです。
最初は親戚で、2回目は父親でした。
親戚の方は2回ぐらいしか会ったことないですし、もともとうちの親は嫌いでしたので
死のショックというのは皆無に近かったんですが(ってアカンやろ…)
確かにあの、ヒトであって人間でないもの、てなんか不思議な感じでしたね。

ただ、10年前にすごく好きだった指揮者がなくなった時はすごくショックでした。
すでに80才過ぎていたから近いうちにひょっとして、とは思っていたにもかかわらず
自分でもびっくりするぐらい落ちこんだことがあります。
しかもその頃その人は「自伝」を書いていてその校正のチェックを終えた直後でして、
誰も死ぬなんて思ってなかったんです。何せダイアナ妃死亡直後の追悼コンサートを指揮する予定だったのに前日に急死しちゃったんですね。

「自伝」を読んでいて思ったんですが、「自伝」を書くということは当然「死の準備」です。
本人も出版社も「本人の死」を前提に考えます。
その上で「自伝」を書くってどういう心境なんだろう、と考えたことがあります。
(よく会社の社長なんかが自己顕示のために自伝書いたりしますが、この人の場合は
そうじゃないですから。)
さらにその翌年にはここのオケとこの曲をやるんだ、ってなことが一杯書いてあって
ファンとしては「永遠に聴けない」ことを突きつけられるわけですよ。
こっちとしてはこの人の指揮であの曲聴きたい、てのが一杯あるのに…

生物学的な死の認識と社会的な死とでは意味合いが違うんですが、
さしあたって生まれた以上は死ぬまで生きていないと仕方ありません。
作り手としては、一片の作品だけでも死後残っていれば、一応は
生まれた来た意味もある、というものでしょう。

嵯峨雅彦2008/07/03 2:00:08

[5]

↓それ、考えたら面白い言い回しのように思えてきたので、後でまたタイトル変更とかしようと思います。mojuni様、有り難うございました~♪(笑)…たしかに今のタイトルはちょっとアレ過ぎるか。。

本橋ゆうこ2008/07/01 0:28:08

[4]

mojuni様。。え…?座右の銘って、そ、そうですか…??(汗)
そんなにうまいこと言ったかなぁ自分。。。(?笑)
しかも感謝されてるよっ!?
…ちょっと職業考え直そうかな?たとえば占い師とか☆(無理!爆)

本橋ゆうこ2008/07/01 0:23:24

[3]

「活き活きと死につつある」!!これはすごい言葉です!!この言葉をこれからの人生の座右の銘にしますー。よかった、もぐさんと今日このことをお話できて。ありがとうー。

mojuni2008/07/01 0:14:18

[2]

mojuni様。。毎度コメント有り難うございます。…おやおや?何を弱気な…少年易老学難成は、確かに私も思いますが、でもmojuniさんだって正にこれからですよーーこれからーーー!!☆(奮)
9歳と18歳のご自分が輝いていらしたなんて、とても素敵なことじゃないですか!?私にはそんな記憶ちぃーともありません。戻りたい過去が仮にあるとしたら…3歳あたりかな?(爆)まあ言葉は悪いですが、結構「生きている死体」みたいに暮らしてきた時間が長かったですかね…自分の場合。。(遠い目)
>一つには死を自分自身のものとして、もう「将来」という言葉とほぼ
>同意語のようにとらえ始めている自分がいる
これって、重いお言葉ですね。。私も、まあ一応いつも「いつか死ぬよな」とかは考えているわけですが、多分それは自分の90過ぎのじいちゃんとか、もっと言うと親とかにとっての「それ」とも全然比べられない浅い覚悟、にならざるを得ないんでしょうね。年齢、というのは、やはりあるのでしょう。。(mojuniさんは絶対私の大先輩なんだと信じて疑わない自分。笑)
でも、そうやって「死体になった自分」、から逆算するのとは別の計算式というのも確実にあって…。
現に今の私は、恐らく最高に「楽しい」。
いや、楽しい?というか何というか…、私はもうしばらく以前から
「”今”が、これまでの人生で一番マシだ!」
と思って生きているのですよ。去年も過去最高の人生。一昨年も過去最高の人生で(爆)。いつだって、今がそれ以前に比べて最高にマシ。あの日に帰りたいなんて日々は、私には無いのです。。
過去を消したいとか言うのでは全然ないですが。
それでも、私は”今”のほうが有り難い。
どんなに歪んで腐っている時代に不幸にもめぐり合わせたのだとしても、もう少し若かった昔に戻りたいとは思わない。
…お金は無いけど、仕事も、他のこともやってて楽しいですし♪
そしてまた、このマシな”今”より、先はきっともっとマシになれるはずだ。これまでもそうだったから。そんな風に信じてます。
これは、ある意味では「まっしぐらに”死”に向かって駆け抜けている」状態とも言えるのかも知れない…でも、私はそれで良いのです。というか、私は人生とはそういうものであるだろう、と思ってるので。
「生きている死体」のように暮らすよりは、「活き活きと死につつある人間」が良い、かな…?
そうです。お互いまだまだ死にきる前にしなければならないことが山積みですよ~!(笑)

本橋ゆうこ2008/06/30 23:00:19

[1]

またまたコメント第一号です。とっても深く広いテーマを扱っておられる記事なのに私が理解し得たのは自分の考えが及ぶ範囲だけだと思うのですが、もぐさんの想いがあまりにも強烈でコメントせずにはいられない気になりました。
一つには死を自分自身のものとして、もう「将来」という言葉とほぼ同意語のようにとらえ始めている自分がいることをはっきりと認識するようになったからです。(なんかややこしい言い回しですが)
いやー、人生は短いですよ。短かったです。少年易老学難成。誰しもある時峻烈な後悔とともにこの陳腐な言葉を思い出す時が来るのです。
振り返れば人生で一番夢と希望に燃えていた年頃と言えば、9才の頃と18才の頃を思い出します。でもね、ン十年があっという間に過ぎた今でもその頃の自分がそのまま入れ子になって入っているという感じ。
冷たくどんよりした目を持つ死体になって転がっているとしても、その中にはその人の最も美しく愛すべき心と血潮が息づいている...そういう死体に私はなりたい...?
個人的な感想ばっかりになってすみません。
今ね、ちょい派遣的な仕事でイラストと関係ないことをしに六大都市の一つに来ています。普段田舎でハマちゃんトッピーとゴロゴロしている私を誰も知らない中で。でね、思い浮かべたんです、いつかこの街をイラストレーターとして歩く自分を。
死ぬ前にしなければならないことは山積みなんだった!

mojuni2008/06/30 22:14:15

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マンガ家、イラストレーター

本橋ゆうこ

現在、主にウェブサイト上で連載記事につける挿絵イラストなどを作成しています。もの凄~く専門的でムズカシイ内容を「つかみはオッケー!」な手描きアイコンや、マンガ風挿絵でよりわかりやすく、多くの人に読んでもらえるものにしたいと日夜考え続けています。エッセイなど物語性のある挿絵のお仕事が得意です。シリアスなビジネス物からアメコミ調、脱力系、萌え系美少女まで…パスによる似顔絵やコマを割ったマンガなども幅広く作成が可能です。 ネット常時接続の迅速返信、データ入稿も可です。お仕事のご依頼はまず、HPのメールフォームからどうぞ☆

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