4月から5時起きの生活が始まった。お弁当作りのためだ。
今春、菊が高校生になり、ラクロス部に入部した。身体を動かすのが好き、というくらいのエセ体育会系なので、野球やラグビーのように甲子園や花園を目指して激しい練習を重ねるスポーツはあわない。もう少しリラックスしてできる部活を、ということで選んだようだけど、それでも、月曜日を除く週6日、朝練がある(ちなみに、ゴールデンウィーク中も毎日!)。
毎朝、5時半に家を出る。つまり5時すぎには朝ご飯の準備ができ、お弁当を詰め終わらなければいけないのだ。
ところで、私はご飯を炊くのに土鍋を愛用してきた。少量でも美味しく炊けるからだ。強火にかけて10分強。お米が中で暴れ始め、蓋の穴からシュッシュと蒸気が吹き上がるのを眺めながら、ツヤツヤに輝く炊きたてご飯を想像するのが楽しいのだ。「始めチョロチョロ、中パッパ、赤子が泣いても蓋とるな」と心の中で歌いながら、毎日土鍋で炊いていた。
でも5時半までにお弁当を仕上げるには、4時半にはお釜を火にかけないといけない。さすがに4時半起きはつらい。。。
手を抜けるところは抜きなさい、と母が炊飯器を買ってくれた。土鍋には、しばしお休みしてもらうことにした。炊き上がりを5時に予約して寝ると、目覚まし代わりに炊きあがりのメロディが聞こえてくる。これが案外、美味しく炊きあがる。「文明の利器はすごい」なんて感動しながら、朝の30分を節約させてもらい、お弁当を作る生活が始まった。
子供が家を出て、片付けをしてひと息つくと、時計の針は6時を指している。驚くほど朝が長い。
これなら、執筆もぐんぐん捗るかも?!と期待したが、残念ながら今のところ、芳しい成果は得られていない。ただ、気持ちいい午前中が手に入った。この季節は、爽やかな風が部屋の中を吹き渡る。宝物のような朝の3時間だ。
以前、友人から「人のために何かをやる、と考えるのは偽善ではないか。全ては自分のため、自分がやりたいからやっていると考えるべきだ」と言われたことがある。
確かに、安っぽい親切心の押し売りをするような人間になりたくないと納得していたけれど、でも、やっぱり人のためにしかできないことはあるようだ。
5時に起きるなんて、私は自分のためには絶対にできない。どれだけ「早起きは三文の徳」と言われても。仮に5時に目覚ましをかけたって、布団の気持ち良さと睡魔に負けて、やっぱ無理!と二度寝してしまう自分しか想像できない。
それがお弁当作りのためなら、さっさと起きている自分がいる。眠いとか、怠いとか、そういうこと言っている場合じゃない。「ごちそうさま!」と空っぽのお弁当箱を持って帰ってくる子供の顔を想像して、甲斐甲斐しくフライパンをふるのだ。
改めて、誰かのために行動する、それはとても自然なことのように感じている。むしろ、他人のためにしか頑張れないところもあるのが、人間の面白いところなのではないか。そして、結局、それは人のためではなく、自分のためにもなっていると後から気付くのだ。
「情けは人のためならず。」
やっとこの言葉の意味を会得した気がする。
△山口県長門市への出張についてきた菊。一緒に木材の使い方をチェック。