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棚橋 弘季 2025.01.31

自律的な地域を実現するために、まちに埋もれた文脈を掘り起こそう

かつてないほど相互依存性が強まったグローバル社会のなかで、私たちはさまざまな分断や孤立に悩まされ、遠く離れた人たちや非人間たちに対して、自分たちがどんな影響を及ぼしているかも認識できなくなっています。ただし、その相互依存関係を気にせずに済んでいるのは影響を与えている側だけです。影響を受ける側は「開発」の名の下に行われる自分たちのまわりの文化や環境の破壊から、自らの暮らしや生命を守るための抵抗を強いられています。そんな抵抗活動を続ける、主に南米の人びとの活動を通じて、これからの自治=自律的な共同体のあり方や、そのデザインをどうやって行うべきかを論じたのが、アルトゥーロ・エスコバルの『多元世界のためのデザイン』です。

本記事は、この書籍を参照点として開催したイベント〈「デジタル共創社会」に向けたNECの実践から考える” プルリバース”多元世界での未来を構想する〉のレポートとして執筆しています。ただし、イベント内容をそのまま報告するのではなく(内容についてはアーカイブ動画をご覧ください)、イベント企画者でありモデレーターを務めた棚橋が、このイベントで考えてみたかったことについて補足し、自らの考えをまとめ直したものです。

棚橋 弘季

Author棚橋 弘季(執行役員 兼 イノベーションメーカー)

2013年、デザイン思考を用いたプロダクト・サービス開発の支援を行なった経験をもってロフトワークに入社。以来、デザイン思考、デザインリサーチ、オープンイノベーションを特徴とする新規事業の構想・コンセプトづくりのプロジェクトに携わる。2016年には、富士通の共創プラットフォーム「FUJITSU Knowledge Integration Base PLY」でグッドデザイン賞受賞。近年では、システム思考のアプローチも取り入れ、社会・環境課題の解決を目指した事業開発プロジェクトに多数携わる。複数のステークホルダーを巻き込んだコレクティブな活動づくりが得意。芝浦工業大学卒業。難解で分厚い本を読むことを愛する。生涯読んでる本は推定1500冊以上。 著書に『デザイン思考の仕事術』、『ペルソナ作って、それからどうするの?』、共著に『マーケティング2.0』。noteのフォロワーは5万人超。

Profile

イベントアーカイブ情報

イベントのキービジュアル。街の上空写真とネットワークのイメージで構成されている。

デジタル共創社会」に向けたNECの実践から考える “プルリバース”多元世界での未来を構想する
ゲスト:
神崎 隼人(大阪大学附属図書館研究開発室 特任研究員)
篠原 雅人(日本電気株式会社 デジタル・ガバメント推進統括部 サービス開発グループ/ディレクター)

動画時間:120分
アーカイブ動画をみる

消えた商店街

この正月、元日。私はふと思い立ち、30年くらい前の学生時代に住んでいた界隈を散歩してみようと、大井町駅から大森駅の方向に向かって伸びる池上通りに沿って歩いてみました。元旦の昼過ぎ、それほど高さもない中小規模の新しめの集合住宅がバス通りに沿って立ち並ぶ景色。その通りを歩く人影はまばらで、しーんと静まり返った様子がよく晴れた天気と相まって、正月らしさを際立たせていました。

ただ、私の記憶の中の風景は少し違っていました。かつて「大井本通り商店街」と呼ばれたその通りは、その名の通り、小さな商店が立ち並んでいて、両側の歩道にはアーケードもかかっていました。元日で多くの店が閉まっていても、わずかに開いたお店を目当てに訪れる人々の姿があったからです。

今では、そんなアーケードや店舗の面影は跡形もなく、「ああ、東京も同じなのか」とちょっとした驚きを感じました。

なぜ「東京も同じか」と思ったかというと、今回のイベントでも紹介した、NECとの未来価値創造プロジェクトで、フィールドワークとして訪れた群馬県前橋市のことが思い浮かんだからです。ほかの地方都市と同様に、前橋市でも中心市街地の空洞化が進み、かつて栄えた商店街が、いまやシャッター通りと化しています。

京都大学の広井良典教授が『商店街の復権』で明らかにしているように、多くの中心市街地の空洞化は、次の2つの段階を経て進行してきました。まず、自動車中心の社会づくりに伴う郊外化の進展、そしてロードサイド店舗や大型ショッピングモールの郊外への出店による郊外の利便性と集客力の向上です。前橋市でも、賑わいの中心はかつての中心市街地からショッピングモールが出店している郊外にシフトし、中心市街地の商店街にはシャッターが閉まった店舗が目立つ状態になっていました。

写真:前橋市の中央通り商店街を歩く、プロジェクトのリサーチメンバー4名の写真。棚橋を含め、男性二人、女性一人が映っている。
すこしずつ新しい店舗も入りはじめている「前橋中央通り商店街」の様子

ただし、前橋市では2019年に官民連携によるまちづくりを推める「前橋市アーバンデザイン」を策定し、マチスタントなどの官民連携の活動を通じて、若い人たちが空き物件を使って新しいお店をはじめるこケースが増えていることを、リサーチを通じて知ることができました。

自治体、地元企業、経済的にすこし余裕がある40-50代の人たち、そして、新たな挑戦をしたい20-30代の人たちが、各々の役割を担いつつ互いに連携し、まちを活性化する活動が進められています。結果として、前橋中央商店街などを中心としたエリアで空き物件が次第になくなってきていること、そこに伴う共創のありようが、まちづくりに携わる人たちへのインタビューや実際に通りで交わされる人びとの会話から、具体的に見えてきました。 (プロジェクト内容に関しては以下、事例記事を参照ください)

画一化した都市

前橋市でのフィールドワークで話を伺うなかでひとつ印象的だった言葉があります。それは「前橋の人は『ミーハー』な傾向がある」というものです。映るテレビのチャンネルは東京と同じ、東京にあるのと同じブランドのお店もそこそこある、だから自分たちの住む地域の中心市街地が空洞化していても、特に危機感は感じないのだ、と。

そのときはなるほどと聞いていましたが、後から思い返してみると、それは前橋市の人たちに固有なものではないのではないか、いや、むしろ東京に住んでいる人たちのほうがはるかに「ミーハー」なのではないかと思うようになりました。東京に住む人々の方が、周囲に流されやすい傾向がより顕著である、というように感じたのです。

同時に思い出したのは、少し前に八丈島に移住した映像クリエイターが言っていたことです。彼いわく、今はクリエイターが大都市で活動する利点が薄れているから、八丈島に拠点を移したとのことでした。東京でもニューヨークでもロンドンでも、得られる情報の差がなくなりつつある今、八丈島のような極端に孤立した環境のほうが、他と差別化がしやすいというのです。

確かに、都市間の違いが薄れているというのは納得がいきます。どこの地方都市でも、大規模な商業施設には同じようなグローバルブランド、ナショナルブランドの店舗が入り、変わり映えがしないと言われがちです。東京などの大都市圏も同様で、新しい商業施設がつくられても入るブランドに大きな違いはなく、どこのまちも似たような店舗で構成されている状況です。

問題は、そうしたまちの変化の過程において、実際にそこに住む人々、日中をそこで過ごす人々が、ほとんど関わることがないということではないでしょうか。まちを変化させているのは多くの場合、大資本です。東京をはじめとする大都市圏ならなおさら顕著でしょう。そこに住み、生活する人の多くがまちの変化になんら関与できないという状況が、当たり前のように受け入れられてしまっているのです。

それにもかかわらず、人々はそのことに疑問を感じていないように思えます。これが、ここでいう「ミーハー」の意味するところです。

ラテンアメリカの先住民諸集団における自治=自律

イベントでは、「一つの正義・規律に従属する他律的態度」が従来のユニバーサルな考え方の特徴だとして、それに対するプルリバースの考え、個々の共同体が自律的に各々の正義や規律を検討し、制作するあり方との比較について議論しました。

ミーハーであるということは、このユニバーサルな価値観を反映しているといえます。たとえば、上記のようなまちづくりの場合でも、サービス提供者とユーザー(あるいは消費者、お客さん)といった、非対称的で、階層的な二元論に取り込まれてしまっている状況が見て取れます。

ユニバースとプルリバースの概念を比較する図版。 ユニバースは、1つの正義、規律に従属する他律的な態度であり、世界、国、地域、会社や学校、家族や個人という、階層構造として世界を捉えている。また、上位が下位のあり方を規定する二元論的な捉え方で、先進国と低開発国、サービス提供者とユーザー、都市と地方など、2つに分類する分け方をする。 一方で、プルリバースは多数の世界がそれぞれ自律的に自身の正義、規律を作る。それは内部で共有されつつも、他の世界との差異も認められる。つまり、多様な自律分散型の共同違い、互いを認めながら共存している状態を指す。市民参加や共助協働、ダイバーシティなどの捉え方。

問題は、人口減少によってミーハーな人たちが地域からいなくなっていっていることではないでしょうか。そうなれば地域への資本の投入はむずかしくなります。それまでまちをつくっていた人たちが資本を投入しなくなれば、空洞化はさらに加速します。実際、こうした現象がいろんな地方で起こったことでしょう。

そのような状況下で、資本が撤退し空洞化が進んだ「まちなか」を自分たちの手で再活性化させようとしているのが前橋市の人たちでした。自分たちのまちを自分たちでつくり、自分たちで維持・運営すること。この視点は、エスコバルが『多元世界のためのデザイン』で述べた「ラテンアメリカでは主に先住民諸集団の間で、それだけでなく他の農村や都市の集団の間でも、自治を求める闘争が繰り広げられてきた」というような、自治=自律の動きにも重なってきます。むしろ、ラテンアメリカの活動から学ぶことが多くあると感じたのが、今回のイベントを企画したきっかけでもあります。

開発する側の論理にすべてを委ねるのではなく、自分たちの伝統に則りながら変化も取り入れ、自らが生活する環境や文化、そして暮らしや生命を守っていくための活動。このような取り組みの一例として、神崎さんがイベント中に紹介していたペルーの事例が挙げられます。

マラニョン川流域の開発において、先住民クカマ=クカミリアの組織が環境アセスメントに対する「事前協議の権利」を行使した、という例です。河川の開発にあたっては、環境アセスメントにおいて経済的な側面はもちろん、そこに生物学や生態学のような科学的視点での評価を加えるだけでなく、先住民たち自身の宇宙観や、人間以外の存在の「ブエン・ビビール」(≒ウェルビーイング)という観点も考慮され、何がどのように影響を受け、いかに評価されるべきかを、事前協議のを通じて共同でつくりあげていくという運動が展開されたといいます。

何をつくるか、それによりどんな変化を生むのか(あるいは変化を生まないようにするのか)を、他者に委ねてしまうのではなく、そこで生きる共同体(これからは、非人間も含む必要があるでしょう)の内発的な規律に基づいて実践的に考え、デザインしていくこと。ここにこれからの市民参加の共創によるまちづくりや地域再生のヒントがあるように思います。

構造的カップリングする多元世界

「我々が自身の提言を手にし損なえば、終いには他者による提言に甘んじることになる」。コロンビアの先住民諸組織の間では、このように言語化される、自治=自律的な存在様式があるとエスコバルは述べています。この存在様式は、私がイベントの冒頭で触れた、1994年1月1日の北米自由貿易協定(NAFTA)の発効日を期して武装蜂起したメキシコ・チアパスのサパティスタ民族解放軍が、2005年の「第6回ラカンドン密林宣言」において表明した以下のような文章にも表れています。

自治政府の方法論は、サパティスタ民族解放軍によって発明されただけではない。それは数世紀にわたる先住民の抵抗と、サパティスタの経験に由来する。それは各共同体による自己統治である。

この表明では、この方法論が先住民たちの抵抗の伝統やサパティスタ自身の経験に基づくものであることが強調されています。このように、エスコバルは自治=自律において重要なのは「伝統を伝統に則って変える」という点だと述べています。各共同体は、外部の他者との関係も結びつつも、内発的な規律に基づいて、自分たちのありようを変えていくことが求められるのです。

エスコバルが本のなかで何度も参照しているオートポイエーシス理論でいわれるように、あらゆる生物は外部の環境に影響を受けつつも、自身の内部にあるシステムに基づき環境に適応可能なかたちに変化していきます。

構造的カップリングを図示したもの。有機体Aと有機体Bが存在する時、それらは相互作用をもたらす。かつ、それぞれの有機体は環境に対しても相互作用をもたらしている。
有機体相互、有機体と環境との構造的カップリングの図式化(ウンベルト・マトゥラーナ, フランシスコ・バレーラ の著作『知恵の樹』の図版を元に棚橋が作成)

「構造的カップリング」と呼ばれる、この有機体同士や有機体と環境との相互作用によって、各々の構造的変化が常に生じるこのありようは、まさに自治=自律的な共同体それぞれが、外部環境やほかの共同体と関係しあい、相互に影響を受け/与え合いつつも、それぞれが自身の規律に基づいて、自らを実践のなかでリデザインし続ける多元世界が成立した状態といえるでしょう。

内発的規律を再発見する

ここで問題になるのが、自分たちの規律といえるようなものをもたない人たち、言い換えれば、同じ規律を共有している共同体をもたない人たちの場合、何に則り、どうやって自治=自律的な状態をつくればよいのか? ということでしょう。この問いへの答えは、自分たちが現在どのような他者や環境との相互作用を行っているかを理解し、そのなかで自分たちが「今、どのように生きているか」を再発見することからはじめる、ということではないかと思います。

エスコバルは第6章の結びである「共同体を持たない人々の場合の共同的なもの」で次のように書いています。

実際、我々は単なる個人ではない。一人ひとりが確かに一人の人間でありながら、必然的に関係性のネットワーク――いや、織りなし――の結び目やつながりとして存在している。共同的なものとは、このような関係のもつれや織りなしに与える名である。一人の人間と、その人間が常に関係性の中に存在する共同的なものとの間には、何の矛盾もない。イヴァン・イリイチが好んで言ったように、共同体の中で生まれず、歴史によって個人として構成されてきた我々にとって、新たなコモンズを築くための種として、友情と愛が常に存在するのである。

このネットワークと、その関係性のもつれや織りなしのなかで生じる相互作用を紐解いてみること。それにより自分たちの共同体を再発見し、自分たちの内発的規律がどのようなものかを再構成することができるはずです。

NECとのプロジェクトで、デザインリサーチとシステム思考のアプローチを用いて行ったこともまさにこの取り組みでした。現代社会に生きる私たちがどのような網目のなかで、どのような環境、どのような他のアクターと関係しあいながら、この問題含みの状況を生きているのかを再発見すること。このプロセスが鍵になるのではないでしょうか。

自分たちのまちづくりにおいて、人間も非人間もブエン・ビビール(≒ウェルビーイング)な状態でいられる共同体をデザインしていく実践の第一歩も、きっと同じようなアプローチになるでしょう。自分たちがどんな構造的カップリングの状態を生きているのか? それをデザインリサーチやシステム思考の手法を用いて見つめ直すことが、その出発点となるはずです。

イベントアーカイブ情報

イベントのキービジュアル。街の上空写真とネットワークのイメージで構成されている。

デジタル共創社会」に向けたNECの実践から考える “プルリバース”多元世界での未来を構想する
ゲスト:
神崎 隼人(大阪大学附属図書館研究開発室 特任研究員)
篠原 雅人(日本電気株式会社 デジタル・ガバメント推進統括部 サービス開発グループ/ディレクター)

動画時間:120分
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