教育におけるDIYバイオの可能性とは
金魚に名前がつけられない自分が鶏の培養肉実験で感じたこと
DIYバイオで生命倫理に向き合う可能性
バイオテクノロジーや生命倫理について、普段あまり考えることがない、あるいは縁遠いと感じている方は多いのではないでしょうか。一方で、遺伝子組み換え食品や遺伝子治療など、より複雑で高度なテクノロジーは既に身近にあり、それらを選択するためのリテラシーや倫理観を養う機会が圧倒的に足りていないと感じています。
バイオテクノロジーや生命科学について、怖がったり思考停止したりせず、創造的に向き合い、自ら考えられるようになるため、「DIYバイオ」が有用なのではないかと考えています。DIYバイオとは、スーパーやドラッグストアで購入できるような材料を使いながら、バイオの世界を探究し、市民自ら知識や技術を深める市民科学のアプローチのひとつです。
そこで、今回、「探究する力を育む「DIYバイオ」の可能性 教育関係者向け体験ワーク&ディスカッション」と題して、 京都産業大学 生命科学部産業生命科学科准教授の川上雅弘さんと、市民による培養肉開発コミュニティ「Shojinmeat Project(ショウジンミート・プロジェクト)」の杉崎麻友さんと共に、ワークショップを企画・実施しました。その内容は、DIYで鶏の胚の組織を培養するワークと、川上さんたちが作った生命倫理を考えるカードゲームです。
このコラムでは、ワークショップの企画者である浦野が、このワークの企画・実施を通じて個人的に感じたり考えたことを共有します。全く共感できないこともあると思いますし、もしかすると嫌悪感を感じることもあるかもしれません。しかし、少なくとも、バイオリテラシーの低い一市民が、このワークを通じて経験した葛藤や気づきを共有すると共に、教育におけるDIYバイオの可能性をお伝えしたいと思います。
執筆:浦野奈美
編集:岩崎諒子
企画意図
今回は、教育者向けに教育プログラムとしてのDIYバイオの可能性を提案するものでした。ワークショップの企画趣旨は以下のとおりです。
バイオテクノロジーの技術と知識へのアクセシビリティ
- 人間以外の生物や生態系の捉え方、一次情報の取得方法をアップデートできないか?
- 怯えたり答えを外に求めたり、思考停止にならない(放射線、遺伝子組み換え食品など)ために、自ら探究し、選択し、判断できる力を育む学びとは
こたえのないものに向き合う姿勢を育てる環境とは?
- こたえのないものに対して、自分の意見を持つことを避けないためには?
- 常に考え続けること、意見を交わし、自分の行動に責任を持つということ、変えてもいいと思えること
- 意見の違う人を否定せず、違いを尊重しながら社会に働きかけられるために
ワークの内容、プロセス
ワークで行った内容は、大きく2つ。鶏の胚から細胞を培養する実験実習と、生命倫理についてディスカッションするカードゲームの実践でした。
細胞培養実験
研究環境をDIYで整えるための考え方や手法のレクチャーからスタート。事前に11日間孵卵させておいた有精卵から、鶏の胚を取り出して解剖し、任意の細胞を取り出して数種類の培養液で培養しました。日本全国で活動するShojinmeat Projectメンバーのみなさんが、東京、福井から集まり、講師として実験をリードしました。今回のワークでは、Shoujinmeat Projectメンバーそれぞれが過去に作成した手順書や、今回のワークのために作った準備物リストを用意。これらの資料はすべて参加者に共有されました。
生命倫理を考えるカードゲーム
京都産業大学 生命科学部 川上研究室開発の「Building Dialog for Genome editing technology(ゲノム編集カードゲーム)」を実際に体験しながら、生命倫理についてディスカッションしました。これは、ゲノム編集に関する様々な課題や問いが「イシューカード」として用意されており、自分の選んだ人物の立場になりきって、それらについて意見を言い合うというものです。
たとえば、「ゲノム編集でアレルギーを解決する?」というお題に対して、各参加者が「食物アレルギーを持っている人」、「遺伝子操作技術によって無農薬栽培を目指す農家」、「ゲノム編集食品に不安を抱く消費者」、「慎重論を唱える政治家」になりきって議論を行うといった具合です。
ワークにあたって参加者にお願いしたこと
上記の2つのワークを行うにあたって、冒頭で今回参加者にお願いしたことは以下のとおりです。
- 本日の培養肉のワークショップでは、生き物を殺すプロセスが含まれます。心理的/思想的に抵抗がある方は強制しません。ただし、生命倫理をテーマにしたワークショップのため、その理由を言語化する努力をしてみてください。
- 自分と意見の違う人を否定しないようにしましょう。また、説得して相手の意見を変えようとしないようにしましょう。
多種多様な考え方がある一方で、感情的になりやすい内容でもあると考え、自分の反応を言語化しようと試みることと、異なる考え方を遮断しないということを参加者のみなさんにお願いしました。
多様性とは。インクルーシブとは。人権とは。
ここからは、ワークを通じて感じたことをお伝えします。
1つ目は、川上さんが話題に出した出生前診断の話についてです。診断技術の発展で分かることが増えた一方で、産むか産まないかといった選択ができる場面もうまれています。このとき、何かの基準で命をジャッジする行為になるのであれば、インクルーシブ教育と辻褄が合わなくなるのではないか?という疑問が浮かびました。
そこで思い出したのが網野善彦さんの「異形の王権」と「日本の歴史をよみなおす」という本でした。古の日本では、障害のある人は差別されたり保護される存在ではなく、時には神に近い存在として、その人にしかできない役割があったという話がありました。違うことに対する価値観は昔の方が柔軟だったのでしょうか。インクルーシブ教育について語る際に、「バイオテクノロジーが進む時代の生命倫理」という価値軸が入ってきた時、隠しておきたい心の底の澱のようなものが炙り出されて、ようやく発現してくる偏見があるのではないか、と感じました。そこに自らギョッとするかしないかで、多様性も、インクルーシブも、人権も、温度が変わってくるのではないでしょうか。
鶏の断頭で見た、自分の中の辻褄の合わなさやなまぬるさ
2つ目は、命を奪うということへのリアリティについてです。
実験後、ひとつだけ卵が残りました。Shojinmeat ProjectメンバーのNokaさんに相談すると、自分なら、このあとそのまま置いておくと神経系が発達し始めるので、今の段階で責任をもって断頭して処理するとアドバイスしてくれました。非常に納得感があったし、企画者の私がやらねばと思いました。
手に取った卵は、いつも冷蔵庫から出す卵とは違い、37度の暖かい卵です。殻にハサミを刺した瞬間見えた血の赤。何より、殻を開けた瞬間、ピクピクと動く胚の四肢や頭の動きに、思わず自分の息子の胎児の頃を重ねてしまい、激しく動揺しました。しばらく眺めていましたが、カップにズルッと出して、その勢いで、ハサミで一気に断頭、エタノールをかけて処分しました。なお、その際、思わず自然と手を合わせていたことに自分自身びっくりしました。自分はお寺の家で育ちましたが、人生で一番自然に出た合掌でした。
日常的に食べている鶏なのに、卵の中で育っている鶏の胚の成長を自分が殺すことで止めるという罪悪感をうまく処理できませんでした。また、処理の際に涙が出てしまったのですが、その涙はナイーブで感情的な涙で、自分の中で受け入れることが難しく、嫌なものでした。
自分にとって「殺す」とは命をいただくこと。私の中では、相手の命を取る=食べるなら納得感があり、食べずに殺すのは抵抗感が増すことを再確認できました。
「殺す」という行為が目の前に現れたときに、大の大人が困惑してしまったり、怯んでしまう。普段は偉そうなことを言ったり正論をいいながら、そんなものはとってつけたシールみたいなものだと知って自分を恥じてしまう。そういう機会は、都市にいると本当に少ないと感じました。
自分の中で軸がない、筋が通らない。感情とロジックが合わない感覚は、すごく大事だと思います。そのことを一旦受け入れたうえで、意見を言う勇気を持つことや言葉に責任を持つこと。そうした意見や言葉すらも訂正や改訂をしてもいいと思えること。相手と意見が違っても説得しようとしないこと。そして、こたえはないから何かしながら考え続けて、勇気をもって社会に投げかけるというサイクルが本当に大事だと、改めて感じました。
都市にいると保護思想が強くなる理由が少し見えたし、私は今はベジタリアンにはならない
3つ目は、都市生活と保護思想の関係についてです。以前、都市にいればいるほど、保護思想は強くなるとある研究者が言っていました。感じたことは、自分が1体の動物として、他の動物や生物と渡り合うリアリティがないから、安易に「保護」と言ってしまうのではないか?という疑問です。
あるいは、以前、あるドキュメンタリーで、千松信也さんという猟師が、大の動物好きで、だからこそ猟師という職業を選んだと話していました。吉村昭の「熊撃ち」という作品では、熊と対等に向き合う猟師たちの姿が描かれていました。人間以外の命と自分の命をぶつけ合って生きている人は、「保護」という言葉を使うのでしょうか。
動物を殺す罪悪感は大事だとおもいつつ、個人的には今回の体験を通じて、「じゃあベジタリアンになろうか」という感覚からはむしろ遠のいた感覚がありました。ベジタリアンの人を批判しているのではなく、今の私は、まず、この、命を奪って生きているという生々しさをもっと血肉にするプロセスを経る必要があるのだと思います。このプロセスを経ないと自分の表面的な保護思想のようなものを助長させてしまいそうだと感じました。
都市に住んでる頭でっかちな自分の中にある「保護思想」的なものと、実際に日常的に命に向き合ってる方のそれはきっと決定的に違うのでしょう。自分の中にあるぼんやりしたものの解像度を上げる努力をしながら、このズレを減らしていく努力をもっとしていかなければと感じました。都市にいながらできるのか、と、もう一人の自分がつぶやきますが、できる方法を探究したいと思います。
DIYバイオのアプローチは引き続きやります
今回のワークショップと私の振り返りを踏まえて、主催者のひとりの杉崎さんから以下のコメントもいただいています。
解剖のプロセスについて、私も定常的にこの作業を実施していた頃、「取り乱しもせず解剖している自分が異常なのか?」等々いろんな感情・想いが湧き起こりました。心を無にして淡々とやることを心がけるも、自分が手をかけることへの胸のざわつきは今も変わらないです。私は、感染症の蔓延で鳥や豚など家畜が大量殺処分されること、人間のために生かされて人間の都合で殺される仕組みに大きな違和感を感じて、動物の屠殺が必要ない、無駄死にをなくす食生産の仕組み、つまり細胞培養で食料生産する未来が必ず実現されるべきだと強く感じたことが、培養肉に関わる活動をはじめた契機であり、活動を継続し続けられる理由でもあります。実現したい未来と相反する=研究のために動物の殺生を続ける現実に、途方もない溝を感じたりモヤモヤが残るのですが、1日でも早くその未来が来るといいなと思い「培養肉、いつか実現すればいいよね」と静観する選択肢は取らずに、罪悪感を感じながらも自ら行動する選択を取っています。..と、こう理論武装して自分を正当化しないと、やっぱりこういう実験は続けるのが難しいと思います。
もうひとつ、教育者視点でのワークショップが重要だと感じるのは、子どもの中にも起こる感情をうまく性悪にいかないようにコントロールが必要な点です。たとえば、解剖実験時に罪悪感として感じるのではなくドキドキした、興奮した、ということだけを認知した時に「自分はこういうことが好きなのかも」「自分、サイコパスじゃないか」「私、動物殺してもなんとも思わなかった!むしろ気持ちいい!」と思考がエスカレートしていく可能性があります。教育題材として使えることは間違い無いのですが、生命の死を軽んじてはいけないというメッセージはしっかりと出していく必要があります。(逆に、「医学部目指したいけど解剖は怖い」と思っていた子が実際体験してみて意外と大丈夫だった、冷静になれたと気づくケースもあったりするので、一概に解剖体験がNGと言いたいわけではないのですが、アフターフォローが何かしらの形でいる気がします。)
ワークショップは、全国からさまざまな教育関係の方が参加され、最終的に予定人数を超える申し込みをいただきました。大人も子供も命と向き合って動揺し、その感覚を勇気を持って共有したり言葉にする機会は圧倒的に足りていないし、教育・研修としてもっと機会があったら、見える景色や価値観は圧倒的に広がるのではないかと感じます。そうした機会をつくるために、DIYバイオのアプローチは可能性が溢れていると感じました。
やってみてプログラムの改善点も見えたので、次回に繋げていきたいと思っています。共催した川上さんや杉崎さんとも、次は何ができるかと話しています。議論したい方、反論ある方、一緒に取り組みたい方、ぜひお声がけください!
あとがき:
金魚に名前をつけられない
今回のワークの企画にあたって、出発点となっている個人的なモチベーションは、「金魚に名前をつけられない」という、今、私がぶつかってる壁です。馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないですし、自分でもそう思うのですが、食料として日々魚は食べているのに、ペットの金魚だけ環境を整えて可愛がっているという2つの向き合い方を自分の中に共存させることに抵抗を感じます。日に日に金魚を可愛く思ってしまう自分に違和感を覚えてしまうのです。同じ命なのに、自分の中にどういう線引きがあるのか、説明ができません。同時に、自分の人生において、生々しい命と向き合って自分の価値観や生き方を揺さぶられることが少なかったことに危機感は感じていたし、引け目も感じていました。卯田宗平さんの「野生性と人類の論理」という本を読んで、動物と人間の関わり方をもっと考えたいとも思っていました。ワークを通じて、ぼんやりと自分の中にあった課題の解像度が少しだけ上がった感覚があります。都市にいながら、どのようにリアリティを持ち、同時に悲観的になりすぎずに働きかけられるか、引き続きチャレンジしてみたいと思います。
記事内で紹介した書籍紹介
「野生性と人類の論理: ポスト・ドメスティケーションを捉える4つの思考」(卯田宗平)
「熊撃ち」(吉村昭)
「異形の王権」(網野善彦)
「日本の歴史をよみなおす」(網野善彦)
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