ルネサンス期の蒐集家たちに学ぶ”未知”との付き合い方
より良く、より多くのものを創りだすためには、できるだけ多くの時間を創造のための思考にあてる必要がある。そして、創造のための思考を効果的に行うためには、思考の素材となる知識の引き出しは多いに越したことはない。
ただし、この場合の知識の引き出しというのは、単に”知っている”だけのものが入っていてもダメなんだと思う。
では、創造のための引き出しには何が入っているといいのか?
引き出しに入っているものは、ちゃんと自分で”扱える”状態になっていなくてはならない。それがポイントだろう。自分で”扱える”というのは、言い換えれば、”理解できている”ということだ。素材として扱うためには、それに対する”理解”がなくては上手に使えない。
そんなわけで、クリエイティブな活動をしたり、創造的に思考をしたりする上では、”理解”することって、とても大事なんだよね、ということをあらためて言っておきたいと思って、この記事を書き始めている。
創造のリソースは「世界に存在する様々な物事」
話を先に進める前に、もう1回、要点を整理しよう。
- “理解する”ことは、”知る”ということとは異なる(と、ここでは定義している)
- 創造的思考には”知る”ことではなく、”理解する”ことが大事である
- なぜなら”理解している”ものは創造の素材となりえるが、”知っている”だけのものはそうなりえないから
- では、“理解”と”知”の違いは何か(ここでは、どう違いを定義しているか?)。後者が「一般的にも了解された世界に存在する様々な物事に関する正しい情報」であるとすれば、前者は「自分にとって有益な状態となった世界に存在する様々な物事に関する情報」だということができる
- つまり、前者は「自分にとって有益な状態」になっているからこそ、思考、とくに新たに何かを創造するための思考に使える情報なのである
というのが、この記事で”理解”について書こうとしている前提だったりする。
では、なぜ、”理解”と創造行為はそんなにも関係しているのだろうか?
創造という行為をおこなうのが神様とかではなく、僕ら人間である限り、その創造というのは結局、世界に存在しているリソースを用いて、既存とは異なる価値=意味を生みだす行為だということになる。けっして、その創造はリソースとして用いられる物質や生物そのものから創造するという話ではない。
すでに「世界に存在する様々な物事」をリソースを用いながらも、それが従来用いられてきた文脈とは異なる文脈に配置しなおし再構成することで、新たな意味=価値をつくりだす。それが人間が行う創造だろう。オーストリアの経済学者ヨーゼフ・シュンペーターが1911年の時点でイノベーションを「新結合(neue Kombination)」と定義したことが思い出される。イノベーティブな創造さえ、既存のものを構成しなおして新しい意味を生みだす活動でしかない。既存のリソースありきだ。
だからこそ、「世界に存在する様々な物事」を自分自身でどう理解するか、理解できるかが、クリエイティブでいられるか否かの分岐点になるわけだ。理解がなければ新しい組み合わせなど、模索しようがないのだから。
ルネサンス期、世界の理解は大きく変わった
こういう観点でみると、歴史上、人間がより創造的になれた時代というのは、必ず「世界に存在する様々な物事」を理解する方法に革新が起こっていたりすることに気づく。
例えば、ルネサンスの時代。
- ホルスト・ブレーデカンプ 『芸術家ガリレオ・ガリレイ』
- エルヴィン・パノフスキー『象徴形式としての遠近法』
- ポーラ・フィンドレン『自然の占有』
この3冊を参照しながら、ルネサンスにおける世界理解の仕方の変化について、見ていきたい。
ルネサンスといえば、フィレンツェやローマといったイタリアの都市を中心に芸術、文化が大きな発展をみた一方、グーテンベルクによる印刷術の発明や、コペルニクスやケプラー、ガリレオ・ガリレイらによる天文学上の大きな革命、大航海時代の幕開けを可能にした羅針盤を中心とした航海技術の発展など、科学・テクノロジーの面でも大きな革新が起こった時代である。
これらテクノロジーによって可能になった、活版印刷された書物、天体望遠鏡や顕微鏡、そして、ヨーロッパ外の地域の探索を可能にした外洋航海術などはどれも、人間が「世界に存在する様々な物事」を理解する方法を革新した要因だといえる。
ガリレオが描く月
例えば、ガリレオ・ガリレイの天体望遠鏡による天体観測。
1609年、望遠鏡による月の観測を行っていたガリレオは、月面に凹凸、そして黒い部分があることを発見した。ガリレオはその観測結果を1610年3月に『星界の使者』として論文発表している。
ところが、 ホルスト・ブレーデカンプの『芸術家ガリレオ・ガリレイ』によれば、同時期に望遠鏡を使って、月の観測を行っていたのはガリレオだけでなかったことがわかる。
ガリレオが月の観測を行ったのと同じ1609年、イギリス人の地図製作者トーマス・ハリオットもまたガリレオからすこし遅れた8月5日に月を観察し、スケッチを残している。「彼が眼にしたものは一葉のスケッチとして残されているが、光の当たった領域には何か不分明な断片的現象が示されている」だけで、ガリレオが発見した凸凹の隆起、谷を想起させるものは描かれていないという。
また同じ年の1609年には、ドイツ出身で、ヴェネツィアやローマで活躍した画家アダム・エルスハイマーが『逃避途上の休息』という作品中に、望遠鏡を用いて描いたと思われる満月を描きこんでいる。
ところが、エルスハイマーの描く月の表面には、なんとなくもやもやした影が描きこまれているものの、ガリレオの正確さに及ばないのはもちろんのこと、「ヤン・ファン・エイクやレオナルドがとっくに到達していた正確さに遠く及ばず」、さらに「望遠鏡を使えなかったチゴリが巨大な隆起のように思い描いた陰りに比べてもむしろ後退している」のだという。
「それゆえ疑問が湧く」とブレーデカンプは次のような疑問を投げかける。
なぜ、ガリレイがその直後に現象の本質として明快にとりだせたものを、ガリレイの先行者は分かりやすく強調できなかったのか。簡単に説明してみれば、ハリオットの6倍望遠鏡がガリレイのものより性能が悪かったということがあるかもしれない。事実、ガリレイの望遠鏡は若干高度な能力を備えていた。ヤン・ファン・エイクとレオナルド・ダ・ヴィンチがハリオットよりも月の正確な像を提供できたのは、公平無私に見るよう訓練された眼を持っていたからである。こういう事実を前にすると、現象認識を決定するのは、器械の性能などではなく自然観察と予見との相互干渉なのだという印象を強くする。
『芸術家ガリレオ・ガリレイ』ホルスト・ブレーデカンプ
同じ天体望遠鏡を使ってもガリレオには月の凸凹が認識でき、ハリオットやエルスハイマーにはできなかったのだから、テクノロジーだけがルネサンス期の人々に、世界理解の仕方を変えたというのは正しくない。ツールが必要なのはもちろんだが、そこに「自然観察と予見との相互干渉」による理解力=新たな解釈を創造する力も必要になるということだ。
ガリレオが行ったのは、望遠鏡で観察して得た月の有り様を繰り返し素描することだった。それはフランシス・ベーコンが1620年の著作『ノヴム・オルガヌム』で、客観的な観察と実験を通じて集めた情報をもとに、帰納法的に新たな知を獲得する学問を提唱したこととの同時代性をつよく感じる。
観察と実験に基づく帰納法。それがルネサンス期に台頭してきた新しい世界理解の方法のひとつだった。
遠近法が僕らを世界から遠ざける
ヨーロッパの人たちの世界の見方を変えたという点では、ルネサンス美術がその後の美術の歴史に大きな影響を与えることになった遠近法だってそうだ。
遠近法は単に絵の描き方を変えただけでない。中世までは美術の分野ではとくに中心的な存在ではなかった絵画というものを、美術における中心的な作品形態に押し上げるくらい、美術というもののあり方を変えたのだ。
さらに遠近法の影響は美術の中だけでとどまらない。
美術史家のエルヴィン・パノフスキーは『象徴形式としての遠近法』という著作の中で、「遠近法はその本性からしていわば両刃の劍」だと言っている。
遠近法はまた、人間と物体とのあいだの隔たりを作り出しもする(「一つはそこで見ている眼であり、もう一つは見られている対象であり、第三のものはそれらのあいだの隔たりである」と、ピエロ・デッラ・フランチェスカにならってデューラーが述べている)が、しかしそれはまた、自立的に存在している人間に対峙している物の世界をいわば人間の眼のうちに引き入れることによって、やはりこの隔たりを廃棄してしまいもする。
『象徴形式としての遠近法』エルヴィン・パノフスキー
人と世界の隔たりを作りだすと同時に、廃棄する遠近法。
絵をみる人間は、廃棄された隔たりによって絵を見ただけで世界に触れていると錯覚してしまうと同時に、世界そのものから隔離されたような隔たりを突きつけられる。
それはまさに世界に関する”知識(=絵)”が、世界そのものに関する”理解(=体験や実感を伴う世界との関係性)”から僕らを遠ざけてしまうこととリンクしている。
現代を生きる僕らもインターネットを介して、常に新しい知識を与えられ続けられているけど、その流れのあまりの止め処なさに忙殺され、自分にとって有益な解釈をちゃんと紡ぎだす時間が取りにくかったりする。
わかったつもりにはなれるけど、本当の意味ではわかっていない。だから、ちゃんと世界に対してアクションが起こせない状態。まさに世界から隔離された状態で、世界に対してちゃんと関与することがなかなかに大変だったりもする。
「驚異の部屋」の流行
いままで知らなかったような情報が大量に身のまわりに溢れだし、しかも、目の前に絵が提示されるから何となくわかったつもりにはなれるけど、実際には何も理解できていない状況。そんな状況に突如陥れられたのが、ルネサンス期のヨーロッパだったというわけだ。
だから、当時のヨーロッパの人たちは、そんな膨大な未知の情報を前に、それらをなんとか理解しようと悪戦苦闘した。どんな苦闘をしたかというと、とにかく、未知のよくわからない物事を自分の身の回りに蒐集したのだ。15世紀を皮切りに18世紀まで続いた、いわゆる「驚異の部屋(ヴンダーカンマー)」の流行がそれである。
“Wunderkammer(ヴンダーカンマー)”はドイツ語で「不思議の部屋」という意味だ。その名のとおり、不思議な(ようは理解できない )物なら、自然物だろうが人工物だろうがとにかく蒐集されたのがヴンダーカンマーである。
例えば、下の画像は、17世紀初めナポリの薬剤師であったフェッランテ・インペラートが所有していた驚異の部屋を描いたものだ。天井に大きなワニを中心に様々な生物がおそらく剥製にされた状態で展示されているかと思えば、右手の棚にはぎっしりとたくさんの書物が収納されているし、左手の壺や箱に入った何らかの品々が保管されているのが見える。他の驚異の部屋では、植物や貝、奇石などの標本、絵や彫刻などの美術品だったり、東洋の陶磁器や南米の民族的道具、武具などの品々が並べられたりもするという。
こんな風に未整理な状態で保管・展示されているのは、まだこうした事物の整理の仕方や正しい分類法がまだ確立されていなかったからだ。理解できていない状態というのを視覚化したらこうなるということだろう。
そして、こんな状態を不自然だと感じないのなら、デザインなどできるはずもない。理解ができなければデザインできないというのはそういうことなんだと思う。逆の見方をすれば、どう解釈したかを視覚化・具体化することがデザインだということもできる。そして、その解釈に新しさがあれば、それは創造をともなうデザインだということだ。
なんでもごちゃ混ぜに蒐集品を展示・保管する「驚異の部屋」の流行は、18世紀の半ばに博物館や美術館という現代でも存在するアーカイブセンターに取って代わられるまで続いた。
象徴的なのはイギリス人の医師で蒐集家であったハンス・スローン卿が1753年になくなった後、そのコレクションを中心として同年に大英博物館が設立されたことである。分類学の父として知られるカール・フォン・リンネが『植物の種』で植物の学名の命名法を整備し、自然界の分類法を示したのも同じ1753年だから、この頃にも人類の理解の方法の歴史が大きく動いたことがわかる。
目録とカタログ
『自然の占有 – ミュージアム、蒐集、そして初期近代イタリアの科学文化』の中で著者のポーラ・フィンドレンが「初期近代ヨーロッパにおける、ミュージアム、実験室、植物園、解剖学劇場などの出現は、推論を重ねるものから視覚的な実験場へという知識の置き換えに重大な役割を演じた」と書いているように、ベーコンの提唱する帰納法的学問姿勢に賛同したヨーロッパの蒐集家たちが、蒐集の場としてつくったのは先の「驚異の部屋」だけではなく、公開実験や公開解剖が行える実験場、薬草園としての植物園、解剖学劇場など、様々な場があったことが知られている。いずれも書物に記された権威ある知にだけ頼るのではなく、みずから様々な事物に触れることで知を獲得しようとする帰納的態度が場を創設させるモチベーションとなっている。
そんなルネサンス期のヨーロッパの蒐集熱がもたらした変化として、フィンドレンが「カタログは、コレクションが生み出したもっとも重要な所産である」と指摘していることはとても興味深い。
所蔵目録が明らかに中世から存在していたのに対して、カタログは初期近代の発明である。目録は、ミュージアムの内容を記録する。目録は、対象に分析的な意味を与えることなく、その一覧を作成することによって、ミュージアムの現実を量として示す。これに対してカタログは、解釈しようとする。16世紀後半にカタログが出現したことは、ルネサンスの蒐集家たちの実践がいかに新しいものだったかを示唆している。
『自然の占有』ポーラ・フィンドレン
ここでフィンドレンが指摘する目録とカタログの差は、そのまま”知識”と”理解”の差に重なるだろう。分析的な意味を与えない単なる蒐集なのか、蒐集品に実践的な解釈を与えようとするか。
現代の僕らからみればデタラメに集めただけにみえるルネサンスの蒐集家のミュージアムも、彼らなりの解釈=理解を生むための創造的リソースだったはずである。実際に未知のものが目の前にある状態で、それぞれじっくり観察したり、いろいろ並べて比べてみたり、時にはいろんな形で実験してみたりしながら、目の前の物事に解釈を加えていく。そうした行為を通じて既存の権威ある書物には記されていない新たな知を創造したわけである。
まとめ:ルネサンス期の蒐集家たちに学ぶ”未知”との付き合い方
創造に必要な理解力をどう身に付けるか?と考える際、こうしたルネサンスの蒐集家たちが「驚異の部屋」を介して行った活動はとても参考になる。
つまり、理解力を高めるために必要なのは、すでに出来上がった答えやノウハウを蒐集することではなく、むしろ、理解=解釈がされていない物事をとにかく身のまわりに集めた上で、自分自身の解釈を組み立てていくことではないか、という観点で。
未知の物事や情報を集めて、それらを実験的に操作できる状況をつくる。その状況下で、観察したり比較したり試用したり分解したり混合したりなどなどしながら、新しい意味を見出していく。
そうした繰り返しをおこなうことで、理解する力を高め、創造的な思考ができるようになるための基礎的な部分が身についてくるのではないか。
ポイントになるのは、わかりやすい情報やすぐ使える答えばかりを集めるのではなく、わからない情報を集めて自分の力でわかる努力を繰り返す必要があるということだろう。確かに未知の事柄というのは、ひとつずつではわかりにくい。ただし、ルネサンス期の蒐集家たちがそうだったように、わからないものもとにかくたくさん集めて、あれこれ分析してみればわかるヒントは見つけられたりする。
そういう理解の方法が普段からクセづけられているか?
理解力を高める1つのポイントはどうもその辺にありそうだ。
では、集めた情報をどんな風に操作すれば、理解に通じる解釈を紡ぎ出せるのか? それについてはまた別の機会に書くことにしよう。
P.S.
想像できるからこそ世界はデザインできる
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