想像できるからこそ世界はデザインできる
前回「ルネサンス期の蒐集家たちに学ぶ”未知”との付き合い方」という記事で、”理解する”ことと”創造する”ことの関係について書いたら、同僚から「知と想像力の関係についても書いてほしい」とリクエストをもらった。
あらためて考えると、日々、想像を働かせて仕事ができているか?って、すごく大事だ。
想像力がなければ、起こってほしいことを実現することはできないし、起こってほしくないことを起こらないようコントロールすることもできないのだから。
それはつまり、ディレクションができないってことになる。わー、それは大変だ!ということで、今回のテーマは「知と想像力の関係について」。
”驚異”を感じられるかどうかが重要
まず「タウマゼイン(thaumazein)」という言葉からはじめてみよう。
ギリシャ語で”驚き”、”驚異”という意味をもつ言葉だ。
”驚異”ということで思いだされる(思いだして欲しい)のは、前回の記事中でも紹介した「驚異の部屋」である。15世紀から18世紀のヨーロッパで流行した”なんでもありのミュージアム”だ。
ここで”なんでもあり”と書いたのは、「驚異の部屋」に集められたものが現在の美術館や博物館のように分類が明確になっていないという意味であって、蒐集基準がなかったというわけではない。
むしろ「驚異の部屋」には明確で厳密な蒐集基準があった。
”驚異”を感じるものかどうか?
見る者をその不可思議さでひきつける珍品貴物であるかどうか?
それが15世紀から18世紀まで、つまりリンネが分類学を体系だてるようになることまでのミュージアムという、ひとつの知的探求の場における価値判断の規範であった。
”驚異”こそ、知的探求のはじまり
”驚異”と知的探求に結びついていたのは、何も15世紀以降の「驚異の部屋」においてだけではない。
ヨーロッパの歴史においては、ギリシャ哲学の領域において、すでに”驚異=タウマゼイン”こそが知的探求の始まりであるとされていた。
例えば、アリストテレスは『形而上学』の中で「驚くこと、太初に、そして今なお人間を哲学することへといざなってきたものが、これである」と書いている。
この驚くことは、解明されていない現象のうちまず一番近いものに向かう、次に少し歩を進めた者はもっと難しい問いに取りかかる……とはいえ何かを説明できず驚いている者は、自分の無知を思い知る。
と。
それが何なのか説明できない事象を前にして人間は驚く。そして、驚きは人の興味をひく。探究心のある人なら、その興味に従い、眼前の謎の解明に向かう。
それが哲学のはじまりなのだとアリストテレスはいう。
つまり、人は自分の関心をひかないものを探求したりしない。
注意をひきつける驚異の対象こそが知的探求の対象たりうる。
15世紀以降のヨーロッパの知識層がみずからの知的好奇心にいざなわれて「驚異の部屋」に珍品貴物を集めまくったのはそういうわけだ。”驚き”、”驚異”の対象を集めて手元に置き、観察し分析することで、知的な探求を進めていく。まさにアリストテレスから続く哲学的態度のルネサンス的あらわれであったといえる。
知と驚異の関係はなんとなく見えてきただろうか?
ここからはそれがどう想像力とつながるかを考えていきたい。
その話の案内役として、前回同様、3冊の本を参照しながら、話を進めたい。今回の3冊はこれだ。
驚くことと見ること
ということで、1冊目。エルネスト・グラッシは『形象の力』という本で、このアリストテレスに代表されるギリシャ哲学における”驚き=タウマゼイン”を取りあげている。
グラッシは「タウマゼイン」を語源学的に考察する中で、”驚く”ことと”見る”ことの関連に言及する。
〈タウマゼイン thaumazein〉は、〈見る〉〈知覚する〉〈観察する〉を意味する場合には〈テアスタイ theasthai〉の派生語である。
と。まさに「驚異の部屋」において、”驚異”の対象である蒐集物が”見る”、”観察する”目的で蒐集されていたことが思いおこされる。
また、グラッシは、プラトンの『テアイテトス』の次のような一文を引きながら、ギリシア神話におけるタウマスとイリスの父娘から驚異と知の関係を探る。
それは英知をとても愛する男の状態である。驚くこと。これ以外に哲学の原理はない。イリスがタウマスの娘であると言った者は、系譜をうまく言い当てているように見える。
タウマスの名前は「奇妙なもの」を意味するという。 一方、イリスは虹の人格化であって、天界と地上界、神々と人間とを交通する役割であったという。神々の世界を虹のように視覚化することで人間に知らせる役割だ。
つまり、タウマスとイリスの父娘の結びつきは、「奇妙なもの」である父と「神々の世界の視覚化」である娘の関係に表現されるという意味で、驚異と知の関係を示したものだといえる。
驚くように見ることができるか?
さて、ここであらためて問いたい。
なぜ、「驚く」ことと「見る」ことはつながっているのか?と。
ここで、あらためてイリスという存在について考えたい。
イリスは虹の人格化だという。ここで問うべきはなぜ、それが神々と人間とを交通する役割とも捉えられるのか?ということだ。私たちにとってみれば虹はすこしも「神々と人間とを交通する役割」ではない。虹がそう見えるのは、それを”驚異”として捉える眼が古代の人にあったからにほかならない。
つまり、どう「見るか」か?の問題なのだ。
どう「見るか」か?によって、同じ虹が”驚異”にも見えるし、見落とされがちな日常になったりもする。
となると、知的探求のきっかけとなる”驚異”を見つけられるかどうかは、どう見たか?という見方次第であって、何を見たか?という対象に依存するものではないということにも気づく。
実際、普通にまわりを見渡してもそうだ。
人によって何に驚きを感じ、何に好奇心を駆り立てられ、探求を進めるかの対象は異なる。
同じ事柄に出会っても、ちゃんと疑問を抱いて自分なりに考察をはじめられる人もいれば、まったく素通りしてしまい、何の考察もできない人もいる。アリストテレスのいう「自分の無知を思い知る」ことで知的探求としての哲学をはじめられる人になれるか、わかったつもりになって何の進展もない人になるかは、どう見るか?次第なのである。
内面のイメージを描く
となると、俄然「見る」ことが大事なんだという気がしてくる。
しかも、その「見る」は目の前のものをそのままの形で捉えるというものよりも、どうイメージを持つかであったりもする。ようは「想像力」に近い。実際、対象となるモノが目の前にあったとしても、それに何を見出すか、想像するかは人次第だということだ。
その点、17世紀の画家であり、建築家でもあったフェデリコ・ツッカーリが示した「ディセーニョ・インテルノ disegno interno」というコンセプトは興味深い。
ツッカーリは1607年にエッセー『絵画、彫刻、建築のイデア』の中で、ディセーニョ・インテルノという考え方を通じて、芸術家の創造とはどういうものかを理論化している。ドイツの文化史家であるグスタフ・ルネ・ホッケが『迷宮としての世界』のなかで、ツッカーリのディセーニョ・インテルノについて説明してくれているので、それを参照しつつ、なぜそれが「知と想像力」という観点からみて興味深いのかを解説したい。
ホッケはこう書く。
最初に〈わたしたちの精神にある綺想体〉が生まれる、とツッカーリはいう。これを要するに、ある〈イデア的概念〉、ある〈内的構図=ディセーニョ・インテルノ〉である。
内面に生まれる綺想体。綺想は、綺想天外の綺想であって、簡単にいえば普通思いつかないような奇抜なイメージだと思えばよい。そういう奇抜なイメージを見ることができるのが芸術家の力だとツッカーリは考える。そして、この普通思いつかない奇抜なイメージこそ、ツッカーリのいうディセーニョ・インテルノだということだ。
これが先の”驚異”を見出す 眼=見方ということにつながっていることを確認してほしい。芸術家の見る力は”驚異”を見出すのだ。そして、その芸術家に見出された”驚異”のイメージこそ、ディセーニョ・インテルノである。
ホッケはさらに続ける。
かくしてつぎにわたしたちはこれを現実化し、〈外的構図=ディセーニョ・エステルノ〉へともちこむことに成功する。
これはタウマスの娘が、虹の人格化であるイリスというのに似ている。タウマスが芸術家の心のうちに想像される内的構図=ディセーニョ・インテルノだとしたら、イリスは芸術家によって現実世界に描きだされる外的構図=ディセーニョ・エステルノである。
画家の描きだすものの変遷
さて、面白いのはここからである。
ホッケは「神は〈自然の〉事物を創造し、芸術家は〈人工の〉事物を創造する」というツッカーリの時代における芸術家の役割の変化を指摘している
ツッカーリというのは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロらが盛期ルネサンスの3大巨匠と言われた時代よりも、一時代後のマニエリスム期の画家とされる。代表作でいえば、レオナルドの『モナリザ』が1503-1519年頃の製作、ラファエロの『アテナイの学堂』が1509-1510年、ミケランジェロの『最後の審判』が1537-1541年ということで、最も近いミケランジェロでもツッカーリとは70年弱の時代的な隔たりがある。
その時代の隔たりが盛期ルネサンスの画家とマニエリスムの画家の違いとなって現れる。
盛期ルネサンスの画家たちが遠近法などの技法を用いて自然の姿の忠実に模倣することを目指したのに対し、マニエリスム期の画家たちは自身の内面に思い描くイメージに忠実に描こうとしたという違いとなって。
つまり、より人間的創造を行おうという方向に向かったのがマニエリスム期の画家たちであり、そのコンセプトと言えるのがツッカーリのディセーニョ・インテルノだったというわけだ。
さらに整理すると、盛期ルネサンスの画家たち自身も、中世の時代の神の世界を描く画家から、現実の自然を描く画家へとシフトしていたのだから、画家が描くものの変化は「神の世界」〜「現実の自然の世界」〜「人間が頭のなかで想像した人工的世界」へと変遷したというわけだ。ようは人間が自分自身の頭のなかのイメージを元にした創造をはじめたのが、この時代であったということである。
視覚的な知とデザイン
面白い符牒がある。
オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリーによれば、英語としての”design”という語が最初に登場したのは1593年だというのである。さらに「絵」の用法では1638年が最初らしい。ツッカーリの『絵画、彫刻、建築のイデア』が1607年である。
そして、ディセーニョ・インテルノ。英語に訳せばインテリア・デザインなのだ。この時代、一気にデザインというキーワードが浮上してくる。しかも、内面のイメージの外化というコンセプトとともに。
ようは、人間が自分の頭のなかのイメージを元に人工的なものを創造するようになった時代がその頃だということだ。デザインという人間的創造の方法が生まれてきた時代だともいえる。
正確にいえば、そのすこし前にも前兆はあった。
天才レオナルドなどは、ヘリコプターや戦車、水力を利用した挽き臼や小麦と籾殻の選別機などの機械をデザインしていて、人工物の創造をはじめていたからだ。ただし、よく知られているとおり、レオナルドの発明はアイデアで終わったものが多く、実際には現実のものとなっていないものが多い。
このレオナルドの例でわかるのは、ディセーニョ・インテルノが画家によって絵としてディセーニョ・エステルノが行われるのを超えて、よりデザイン的な意味での想像したものの外化=ディセーニョ・エステルノが行われるようになるためには、絵を描くのとは別の外化のための技術が必要だったということだ。
それゆえ、内的想像力を用いてデザインを現実世界に実現することが可能になってくるためには、その想像力が物を作りだす職人の技と結びつく必要もあった。
職人の技の知識化、そして、そのための視覚表現化
ここで参照したいのは、著名な教育学者として知られるコメニウスによる世界初の絵入りの教科書といわれる『世界図絵』である。
コメニウスは、現代でも日本をはじめとする多くの国で採用されている同一年齢の子供が同時に入学し同一学年で同じ内容のカリキュラムを学び、同時に卒業とするという学校許育のしくみを構想した人物と言われる。コメニウスが生きた時代はカトリックと新教徒の間の争いでヨーロッパがバラバラになってしまた時代だった。そんな環境下で、コメニウスは、各国語による記述のある絵入りの教科書を使って、同じカリキュラムを子供たちが学ぶことによって、ヨーロッパが再びひとつになるという夢を描いた。その夢をのせた『世界図絵』が発表されたのが1658年である。ツッカーリの時代から50年ほど経った頃のことだ。
絵入りであるということがまずひとつめのポイントだ。子供用だから絵本というだけではない。驚異の部屋がそうであったように、この時代、知識はとにかく視覚化する力が働いていた。それは実験主義、経験主義が重視された時代であったからでもある。見えること=知ることと考えられていた時代だ。ここに知と想像力の関係の芽生えがある。知ることはイメージに映すことなのだ。
そして、ここで『世界図絵』を紹介したのは、もうひとつ理由がある。コメニウスが絵付きで紹介する知識のうちには様々な職業が含まれているからだ。
これを単に、現代の社会で子供に、大人たちの仕事を紹介する類いのものと同じようなものとだけ考えてしまうと、大事なポイントを見落としてしまう。コメニウスが職業に関する情報を、子供の教育に必要と考えたのは、それがヨーロッパを新たに再生するために必要な知と考えていたからである。そして、職人に関する情報を、知識として捉えること自体、ヨーロッパにおいてはひとつの知のパラダイムシフトだったわけである。
職人の技が知となった時代
そのことを考える上で参照したいのは、すこし遅れて出版の分野で流行したもののひとつである百科事典だ。
有名なところでは、イギリスのイーフレイム・チェンバーズによる『百科事典』が1728年に、フランスの啓蒙思想家ディドロとダランベールらが中心となって編纂された『百科全書』が1751年から1772年にかけて、それぞれ出版されている。
『世界図絵』はそうした百科事典編纂の流行に先駆けた子供向けの百科事典とみることができる。
その百科事典で扱われた情報の多くを占めるのが、実は職人的な技なのである。
これが実はヨーロッパにおける知的情報のパラダイムを広げるものであった。それまでのヨーロッパでは職人的な知識を学問の領域で取り上げることはなかったからである。なぜなら基本的には神について学ぶことだったのだから。それがルネサンス期に、芸術家が自然を描くようになったのと同時期に、たとえば医学の分野では、いわゆる外科的処置を行う職人や薬剤をあつかう薬剤師などの職能をもった人の知識が、アカデミックな医学の学者にも取り入れられるようになってくる。驚異の部屋をもった人の多くが医者や薬剤師であるのもそのためだったりする。
チェンバーズの『百科事典』が発行される9年前の1719年に出版されたダニエル・デフォーの『ロビンソン漂流記』も実は職人的知識の博覧記であることが面白い。たった一人で無人島に漂着したロビンソン・クルーソーが創意工夫を凝らして住居や貯蔵庫をつくったり、狩りや栽培で食料を確保したり、聖書を読んだり、日記をつけたり、犬や猫、ヤギを飼ったりしながら生き抜いていくその話の主題は、『サイクロペディア』が目指したのと同じように「大衆的で実用的な知識」を書物の中に表して見せることだといえる。
まとめ:想像できるからこそ、世界はデザインできる
そんな知識は、やはり『世界図絵』同様、絵付きで示された。見ること=知ることなのである。
そのすぐあと、ヨーロッパの歴史は啓蒙の時代に入っていく。
いうまでもない。その名の通り、蒙(くら)きを啓(ひら)く時代だ。闇に隠れて見えないものに光を当てて、明るみに出していこうとする時代である。まさに見ること=知ることにまっしぐらになっていく流れがあった。
見ること、想像できるようになることは、こんな風に、知ること、わかることとつながった。それは内面にあるイメージを外化し、現実を変えるというデザインの根本的な作法として歴史的にも登場してきた。その歴史の先に僕たちはいる。だから、冒頭書いたように想像してみることは、デザインすることに強く関連しているのだと思う。想像できなければデザインはできない。
一方、見ることは物事を知ることばかりにつながっているわけではない。
そう主張し、見ることに疑いを向けたのがデカルトだった。有名な著作『方法序説』は1637年の作である。ツッカーリがディセーニョ・インテルノとそう変わらない。その『方法序説』に含まれる「屈折光学」という論文でデカルトは、なんと錯視の問題を扱っているのだ。その視覚への疑いこそ、デカルトの懐疑論の根底にあるものだとも言える。ようは、見ることは知ることだけでなく、人を誤らせることにもつながっている。このあたりもまた別の機会に考察してみることにする。
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