呼吸と痛覚を取り戻す。プロデューサー・新澤梨緒の山小屋日記
——(最終回)「山ダッシュ」の日々を胸に
忙しい毎日の中で、理想の仕事のしかたと今の自分の距離に途方に暮れ、行き詰まり、心がポキッと折れてしまった時…… あなたならどうしますか?
プロデューサーの新澤梨緒が選んだのは、山へ行くこと。といっても、数日間の登山ではありません。1ヶ月間ロフトワークでの仕事を休み、標高2300mの場所にある山小屋に住み込みで働いてみるという選択をしたのです。一見突飛なようにも見えるこの選択の裏には、新澤が大切にしている「人生はどれだけ長く生きたかではなく、息を呑む瞬間にどれだけ出会えたかで価値が決まる」という言葉がありました。
この連載では、ふつうに息をすることさえ忘れかけていた新澤が、山へ行き、数々の「息を呑む瞬間」に出会い、徐々にゆったりとした呼吸を取り戻していくまでをみなさんにお伝えします。最終回となる今回は、前回語りきれなかった山小屋でのエピソード、ついに迎えた下山の日のこと、そして再び東京での仕事に戻った新澤に起きた変化について綴ります。
執筆:新澤 梨緒(株式会社ロフトワーク)
企画・編集:新原 なりか
山小屋歴50年のじいちゃん
これまでのエピソードでも少し登場したが、わたしがはたらいていた山小屋には、夏〜秋のシーズン中は山小屋で暮らし続けること約50年の、75歳のじいちゃんがいる。元々、小屋の主人だった人物である。そのじいちゃんは、全然仕事をしない上に仕事場を散らかすし、いつもベテランのスタッフに怒られているのだけれど、何だかとっても楽しそうで、いい生き方をしている。
じいちゃんは毎日、手製で甘酒をつくる。玄米と麹を発酵させて出来上がった甘酒を、「健康ドリンクができたぞ〜」と、皆に配り歩く。ときには気まぐれに、秘密の材料を使って、皆を喜ばせるためにパンを焼く。夜になると、「このシワシワの手がいいんじゃよ」と言いながら毎日大切に整えているぬか床から、キュウリやナスのぬか漬けを少し取り出して、こだわりのスピーカーから流すジャズミュージックをバックに、隠し持っているお酒を飲む。ぬか漬けは周りの皆にも振る舞ってくれるけれど、酸味が強すぎて美味しいとはいえない日もあるが、それも彼のスタイルである。たまに流すレコードは、ショップに訪れたときに自分で「ふんふんふん〜♪」と歌って店員さんに探してもらうそうだ。そうすると、店員さんは面白い客だと喜んで探してくれるらしい。自然体で気取らず、でも自分にとって大切なものごとを良く分かっているじいちゃんは、生き方に関する気づきをたくさん与えてくれた。
暑い日が続いたある時、小屋の前でひとりの登山客が突然倒れて動けなくなってしまった。全身の力が抜け、支えても立つことも座ることもできず、彼女はみるみる顔色を失くしていった。死んでしまうんじゃないかと怖さを覚えた。その時、突如動いたのはいつも座ってオヤツを食べていたあのじいちゃん。あっという間に氷水の準備、寝かせる場所の確保、看護師(偶然にも山小屋で働いていた)の手配を行い、すぐに看病に入る。そして、看病すること数十分、彼女は容態を徐々に取り戻し、無事に下山へと向かうことができた。見落としがちだが、登山には危険はつきものである。数千キロカロリーを1日で消費するし、何かあったときに救助がすぐには呼べないことがほとんどである。厳しい環境下で、ひとの命を守る山小屋の大切な役割に気づいた日だった。
コンビニに目がチカチカ
そういったいくつかの事件はありつつも、毎日のルーチンを淡々とこなしながら、山小屋の日々は穏やかに過ぎ去っていった。けれどわたし自身は、下山の日が近づくにつれて、一緒に過ごしてきた仲間や暮らしへの愛着から少しの去り難さを感じはじめてもいた。
8月下旬、わたしはついに下山の日を迎えた。朝、荷造りを終えると、仲間たちの盛大なお見送りを受け、1ヶ月前に登ってきた道を一緒に下山する仲間と二人で下っていった。わたしたちが見えなくなるまで大きく手を振り続けてくれた仲間たちの姿はとても爽やかで、今でも鮮明に覚えている。果たして下山後、東京に戻ったときにわたしは何を思うのか、全く想像ができない中で、少しのワクワクを携えながらの下山となった。
手土産にと渡されたコロッケは道の途中ですぐに油でベトベトになり、山小屋の仲間たちのいたずら心を思い出して「も〜!」と怒りながら笑顔で食べた。山の上の暮らしを惜しむ気持ちはあるけれど、とはいっても下山後の楽しみはたくさんある。我慢し続けた新鮮な魚にビールにお風呂が待っているんだと、ルンルン気分で足取り軽く山を下っていった。
山を降りたあと、飛騨高山の街に出た。視界の全面が山に覆われた暮らしをしていたので、1ヶ月ぶりの街はたくさんの情報に溢れていて、とてもきらびやかに見えた。街は驚きの連続で溢れており、まるで宇宙人になったかのような気分だった。まず、ATMに寄るために入ったコンビニは、あまりの商品数の多さに目がチカチカしてしまい、3分と滞在することができなかった。その後、腹ごしらえをするために入った近くのラーメン店では、世界一美味しい食べ物を食べているんじゃないかと思えるくらいに、ラーメンと生ビールが尊い食事に思えて、涙が溢れそうだった。ショッピングモールでのお買いものはとても楽しかった。ものを買うという機会が全くない暮らしをしていたので、お買い物の行為自体が楽しくて仕方がなく、早速ワンピースを購入してしまった。そして、銭湯の感動はもちろん忘れまい。1ヶ月間、湯船に浸かることができなかったので、日本の入浴文化に感謝した。
お風呂上がりは買いたてのワンピースに着替えて、晴れ晴れしい気持ちで仲間とお別れした。その後も、飛騨古川の友人宅で新鮮なお魚や野菜を使った料理を頂き、美味しさのあまり口にかきこんでしまい友人ご夫婦を驚かせたり、山小屋ではトイレットペーパーは流してはいけなかったので、トイレに入ったときにトイレットペーパーを流し忘れそうになることが数週間も続いたりと、完全に、街の暮らしのビギナーになっていた。
ふと蘇る山小屋での日々
東京に戻ってからも、暫くは街での生活に馴染めなかった。一日中パソコンを見ながらの生活は不健康に思えるし、毎日お化粧をすることも不自然に感じていたし、業務に向き合うことよりも「仲間と同じ釜の飯を食べること」の重要性を訴えていた。そこから徐々にバランスを取り戻し、都会での暮らしにも大きな違和感を抱くことなくそこそこ馴染めるようになったと思う。
ただ、山小屋で得た「自分にとって大切なことを取捨選択しながら生きていこう」という心持ちは忘れていない。そして「何よりも身体性を持って物事と向き合う」ことの大切さも山小屋で学んだことだ。そのために、現場に訪れること、時間をかけて対話を重ねることをこれまでよりも大事にするようになった。また時には、仕事仲間を登山に連れ出すなど、ひとの芯に触れる機会をつくりはじめたことも仕事のなかで現れている小さな変化だと思う。
ふとした瞬間に思い出すような、淡くきらめく瞬間に満ちた日々を過ごした夏だった。
一年経った今でも、山小屋の中で感じた早く山に走りに行きたくて身体がモゾモゾする感覚が蘇るときがある。当時は、休憩時間に近くの急斜面をただ駆け上り下ってくるだけのチャレンジ(山ダッシュ)を日課として楽しんでいた。あの夏の日々を思い出しては、あんなに一瞬一瞬が見逃せないくらい大切な時間をなんて贅沢に浪費してしまったのだろうと、自分の青春時代を懐古するときと同じような感情を覚える。
山で過ごすことを決める前、わたしは目の前の役割に応えることを大切にしすぎるあまり、自分自身のらしさやペースを見失いつつあった。ゆっくりと息を整えたり、自分自身の痛みを把握したりする余裕がなくなっていた。東京での生活は山で過ごす前と何ら変わらず、私は今もたくさんのやるべきことや期待に囲まれている。ただ、あの夏「大自然のほか何もないけど豊かな時間」を過ごすことでゆっくりと取り戻した呼吸と痛覚は、もう失われることはないだろう。
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