わからないことに立ち向かう方法を想像することをデザインという
―言葉とイメージの狭間で
実は、「正しさ」なんてものを信用したことは一度もない。
何かがその時々の状況に応じて「適切である」ことはあって、その選択がその条件のもとで正しいことはあっても、何かが無条件に正しいなんてことはないと信じている。
かつて、古代エジプト人たちが「変身」という思考装置を用いて世界を理解していたという話にしても(詳細は、note記事「牛、蜂、そして、百合の花」で解説)、いまの僕らにとってはまったくもって「あり得ない」ことだとはいえ、その思考が「正しくない」なんてことはないと思うし、その思考は十分その条件下においては論理的だし「正しい」。
そういう思考のオルタナティブを示してくれるからこそ、そうした過去の人類の信仰や文化に触れたりすることは楽しい。自分たちがいかに凝り固まった考えに囚われているかに気づかせてくれるから。
それに、現代の僕らの判断だって、状況をどう捉えるかによって、一見「正しい」と思えるものが「正しくない」ことだってたくさんある。
特に、人新世なんていう地質学的にも影響の及ぶ大きな環境変化を導き、自分たちの生命の存続すら危うくしている活動を近視眼的に正当化している判断は、中長期にみたらまるで「正しくない」ことが明らかだ。
そこで短期的な見方、中長期的な見方のどちらが「正しい」なんて話ではないのは考えるまでもない。ようするに、そもそも「正しい」ことが1つに決まることなどないというだけだろう。
未知の状況下においては「正しい答え」は未定である
というわけで、絶対的な「正しさ」を求める姿勢がそもそも絶対的には「正しくない」のだ(それが「正しかった」条件は過去にはあったのだけれど)。
だから、いま求めるべきは、現条件下において何が「正しい」選択かを考えることである。
何を選ぶのが良いかを考える必要がある状況というのは、立ち向かおうとする事象に対しての答えがその時点で未知であるという状況である。つまり、どう立ち向かうのか? 立ち向かってどうなるのか?が「未知」の状況だ。
そして、その答えが未知だというのにも2種類ある。
「1.自分にとっては未知だが他人にとっては既知である」か、「2.自分にも他人にも未知である」かのいずれか。
1の場合であれば、確かに何らかのルールや取り決めとして「正しい」選択が事前に存在していることもあるから、そのルールなり取り決めについて知っている人を見つけて聞くことが最善の策となる。知ってる人といったが、人でないこともある。科学というのは、自然がそれを知っていると想定して、答えを探そうとする態度かもしれない。
しかし、2の場合にはそもそも誰も答えは知らない、というか、答えは存在していない状態だ。だから、「正しい」答えを探そうとしても無駄だ。いわゆる自然科学から隔てられた、社会科学、人文学的な領域においては、こういう状況ばかりだ。だけど、1の状況しか想定しない人がとにかく多いので、正しい答えを知ろうという間違った選択をしてしまう。エセ科学的な態度で都市伝説的な正解を見つけようとしはじめる。
だが、2の状況というのは、ようするに、正しい/正しくないが未だ存在しない状態である。
その条件でならあらかじめ決まった「正しさ」があるように考え、それを求めるのがまさに「正しくない」のは自明なはず(だが、残念ながら、現実にはそれほど明確ではないようだ)。
そうした相対するものが未知なもので正しい対処の答えが未定の状況下においては、その未知の状況にどう立ち向かうべきかを考え、想像してみることの方が「正しい」だろう。
わからないなら想像すればいい
わかっていることしかできないというのは何とも頼りない。
わかっていないこと、知らないことでも、想像することや仮説を立ててみることはできるからだ。
神話というのはそうした思考の結果である。その思考力は現代の僕らの想像力よりはるかに逞しいとも感じる。
誰だって、さすがに想像できていないものは相手にできないし、やってみること、実行することもできない。だからこそ、まずは想像してみることが大事になる。その意味では想像することは生きるためには不可欠で、バイタリティーを左右する。どうしたらいいかわからない状況において、機転をきかせて危機を回避できるかどうかは、仮説をつくる想像力にかかっている。
わからないことや知らないことがあると、どうにもできなかったり、やたらと時間がかかったりする人は、多くの場合、この想像力を使った仮説づくりができていないんだと思う。
未知のものを相手にしたり、やったことのない仕事に取り掛かったりする場合に、想像したら良いことは2つある。
1つは達成後にどういう状態になるかというイメージ、もう1つはそれを達成するまでのプロセスのイメージだ。
言い換えると、前者は目的・目標は何かということで、後者は、どういうタスクを順に行えばその目標に辿りつけそうかということになる。プロジェクトマネジメント的にいえば、プロジェクトの目的や目標をどう定義し、その達成のためのスコープをどう計画して、具体的に実行すべきタスクへといかに分解していくかということになる。
この目指すべきところと、目指し方という2つの側面を仮説としてイメージできるか? 求められるのは、そういう想像力である。
わからないことに立ち向かう方法を想像することをデザインという
ということで、計画というのは、こうした想像に基づくものだ。
そして、この像を想い描くことをデザインという。
わからないもの、未知のものの像をそれを知るため、理解して扱えるようにするために創造力を発揮して描くこと、それがデザインに他ならない。
この点において古代エジプト人や現代におけるアメリカ大陸の先住民たちが、人間と非人間、あるいは非生物といった異種間の変容を謎めいた世界における1つの生成の原理として理解することと、現代においてデザインを行うことの間には、用いるロジックの違いこそあれ、未知に対して仮説の像を用いて現実との折り合いをつけるという観点においてはまるで違いはない。
むしろ、両者がともに未知に対する方法として共通していることに気がつかない視野の狭さがあやういのでないかと思う。
とりわけ、デザインという思考態度の用いる先が変化してきている現状においては、それが未知に立ち向かう方法であることに無自覚なら、もはやその方法は何の役にも立たないだろう。
あらゆる動物や、その他の宇宙の構成要素は、強度的に人間なのであり、潜在的に人間なのである
そのことを考える上では、もうすこし想像力のオルタナティブについて、見てみたほうが良さそうだ。
例えば、アメリカ先住民たちの思考を考察した『食人の形而上学』で、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロは「すべての存在者が、必然的に事実上の人格をもつというわけではないならば、根本的なポイントは、あらゆる動物種や存在のモードがそうであるということを(権利上)妨げるものは何もないということにある」と、僕らが前提とする人間とほかの動物種やそれ以外の存在とのあいだの垣根などというものは、ルールの1つでしかなくて、そうでないルール下で機能する思考の存在を示唆している。
アメリカ先住民たちの思考がまさにそうであり、彼らの思考のルールにおいては、
あらゆる動物や、その他の宇宙の構成要素は、強度的に人間なのであり、潜在的に人間なのである。なぜなら、それらのうちのいずれも、自らがある人間存在であることを示す(に変容する)ことができるからである。
あらゆるもの―― 動物であろうと、非生物であろうと―― は、人間としての潜勢力をもっている。それらが人間であることを示していない(人間に変容していない)のは、まだ、その力が潜在的領域に止まっているからに他ならない。それは必要あらば、発現できる。動物は人間になるし、人間もまた動物や非生物へと生成変化することができる。
アポロンに追いかけられてオリーブの木になったダフネのように。
さいわい、父ペネイオスの河波が目にはいったので、「助けて、お父さま!」と叫んだ。「もしこの流れが神性をもっているなら、あまりにも恋い慕われるもととなった、わたしのこの美しい姿を無くして、別のものに変えてくださいますように!」こう祈り終えるが早いか、彼女の手足はけだるい無感覚に包まれ、柔らかな腹部は薄い樹皮でおおわれる。髪は葉に、腕は枝に変わり、たった今まであんなに早かった足はどっしりした不動の根となる。頭も、梢のかたちをとる。輝くばかりの美しさだけが、もとのままに残っていた。
まさに、「万物は流転し、万象は、移り変わるようにできている」と書く古代ローマの叙事詩、オウィディウスの『変身物語』同様の世界観である。バルトルシャイティスの『イシス探求』で紹介される古代エジプトの「蜜蜂は、一部は蜜蜂から生まれ、一部は腐敗した牛の体から生まれる」というのにつながる世界の捉え方だ。
デ・カストロはこう続ける。
単純な論理的可能性が問題なのではなく、存在論的な潜勢力が問題なのである。「人間であること」そして「パースペクティヴをもつこと」、それは度あい、コンテクスト、立ち位置の問題なのであり、どういった種であるかという際立った固有性が問題なのではない。ある非日常的な存在は、他よりもより完全なやり方でこの潜勢力を現実化するであろうし、さらにそのうちの特定の存在者が、われわれの種がもつ潜勢力よりも優れた強度をもって、その潜勢力を示すであろう。この意味で、それらは人間であるというよりは、「より人間的」な存在なのである。
そこでは僕らなら前提としてしまう種の「固有性」は問題でなく、問題は何になりうるか、何として表れるのかという潜勢力の方だ。
牛として表れるエジプトの神、オシリス、イシス、アピスは同様の潜勢力をもつのであって、その表れよりも、その潜勢力に神的な力の意味はある。
潜勢力を表出させるために、デザインを用いる
これはドゥルーズとガタリが『千のプラトー』で描く、こうしたリゾーム的な多様体のあり方と重なってくる。
こうした中心化システムに、著者たちは非中心化システム、有限な自動装置の組織網を対立させるのであり、そこではコミュニケーションはある隣接者から別の任意の隣接者へと行われ、茎や経路は先立って存在することがなく、個体はどれもみな交換可能で、単にある瞬間における状態によって定義されるだけ、そのため局地的操作は相関的に組織され、包括的な最後の結果は中心的権威からは独立してみずからをシンクロナイズするのである。
個体はどれもみな交換可能だというのは、それらが機械の部品のように「同じ」だからではない。異なる個体が入れ替わっても、異なる表れとして、その潜勢力を表出できるのが、リゾームからなる多様体だ。
僕らのネットワークで繋がった世界はこの潜勢力を有する複数の多様体(いや、実際にはそれは数の数えられない対象だが)でできている。
だとした時、未知のものに像を与える方法としての「デザイン」というものの意味も、従来とは異なったものとして捉えるべきではないかと思う。
大量生産など、同じものを繰り返し生むために用いようとしてきたデザインではむしろない。未知のうちに潜む潜勢力を都度、解きはなつために用いる一期一会的なデザインへと、デザインはその対象を変更する必要があるのではないかと思う。まさしく、表面に出ておらず、まだ、わからない事柄に対して立ち向かう方法を想像することがこれからのデザインの価値なのだろう。
そういう状況において、わかっていること、正しいことは、むしろ、未知なものを想像するための足枷になる。旅をしていると、そんな足枷から自由になるチャンスがもらえるのが良い。
食人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道
エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ カストロ (著), Eduardo Viveiros de Castro (原著), 檜垣 立哉 (翻訳), 山崎 吾郎 (翻訳)
洛北出版
Amazon.co.jp
* 本記事は、棚橋弘季 個人ブログ『言葉とイメージの狭間で』より厳選した記事をご紹介しています。
Next Contents