共創の技術 ― 言葉とイメージの狭間で
いっしょに創るための技術が足りない。
これだけ「共創」だとか「協創」なんてことが言われていながら、まだまだ世の中では、どうやったらうまく効果的に異なる文化や専門領域をもった他の人たちと仕事ができるかという観点での技術は、残念ながら未熟な段階にあるなと感じる。
テキスト:棚橋 弘季(イノベーションメーカー)
個人においても、組織においても、共創技術が未熟
それは個々人の考え方や仕事をする上でのスキルという面でも、共創のスタイルで仕事をするためのものに書き換えられていないし、それを学習、教育するための仕組みもまだまだ整備が圧倒的に不十分だ。
共創に参加しているはずの人が、どうしたら文化や専門性の異なる人たちと、議論し、共同作業し、それぞれの誰もがかたちにしえなかった新たな価値をその共同ワークから作り得るのかについての知識を持っていないケースは少なくない。具体的なワークにおける振る舞いにおいても、どうすれば共創のためのコミュニケーションが成り立つのかを知らないだろう。
知らなければ知ろうとすれば良いのだが、この点に関しては、大人の学習意欲、成長意欲がそもそもにおいて低いというのもある。
ある程度の年代になると新しいことを学ぼうとしないし、変わろうとしないのは、共創云々を置いておいても根本的な問題としてある。こういうのは、精神的な怠惰以外の何物でもないのだと思うのだけど、どうだろう。
また、こっちの方がさらに問題だが、組織的な面でも、共創を行いやすくする、効果的に共創できるような形でしくみを構築できていない。
それは体制の面でも、ルールの面でも、基本的なビジネスフローの面でも、オフィス空間の面でも、契約の面においても。
ようは企業そのものの価値を生む戦略として、共創的なアプローチを前提とした組織のシステムに転換できていないケースが圧倒的に多いのだと思う。しくみができていなければ、共創のアプローチがうまく回らず成果に結びつかないのは当然だ。
いわば、個々のバラバラの専門ユニットが戦略的に組み合わされたかたちで構築されたシステムによって成果を生み出そうとする従来的なビジネスのやり方が、共創という新たな戦略的アプローチに向けて更新されないまま、掛け声だけ「共創」という音を響かせている状態だ。
だが、そもそもの創造に向けての考え方が従来的な線的な創造のアプローチと、共創とではまるで異なるのだから、いまのビジネスシステムで共創がうまくいくはずもない。
わからないから新たな価値創造のきっかけとなる偶然が得られる
では、どういう技術的変革、技術的なしくみの構築が必要なのか。
まずは、個人的な技術の点から触れよう。
共創というアプローチの本質は、異なる文化や専門性を持ったもの同士の交差から、それぞれの領域単独では生み出せなかった新たな発想や具体的な創造物、しくみなどを、偶然的な組み合わせの妙もうまく使いながら、創造していくことにある。
ようするに、はじめから、そこにおいては普段通りには物事が進まないことが前提となっている。知らないことばかりに触れて、それについて知らない相手と議論し共同作業をすることが前提となっている。
これは従来の働き方の前提とは大きく異なるだろう。前提が違うのだから、異なる仕事の技術が必要になる。
共創の現場では、わかっている事柄のなかで考えることは禁止までされないまでも端に置かれて、知らないことに常に向き合い、その中で考えるということが求められる。
もちろん、それはずっと知らなくて良いということではない。
むしろ、知らないことを知ろうとしなくては何も起こらない。
知らなかった人が努力するなかで新しく知を得る過程で、従来それぞれの領域では習慣的に排除されていた選択肢が素人がもつ自由さによって選ばれて、そこから価値が生じるような偶然の発見に賭けること。それが共創のアプローチを採用する一番の理由でもある。
こうした前提に立つとき、共創のアプローチを採用する個々人に求められるのは、「わからないことに向き合うこと」「異文化、異分野の知らない人たちと議論し共同作業を進めること」「偶然の中から新たな価値創造のタネを拾いだせること」だ。
しかし、これを実際にやるための技術を持たない、身につけないまま、なんとなく共創(っぽい)仕事をしている(つもりの)人が多いから、なかなか結果は出にくい。共創が結果につながらないというより、そもそも共創していることになっていないのだ。
異質なもの同士の共同作業のための技術
結局、共創をしているつもりが共創になっていないのは、異なるもの同士のあいだの通じにくいのが前提となる関係性のなかで共同作業をすることのむずかしさが想定されていないからだ。そもそも、わからないことに向き合うこと、異文化、異分野の知らない人たちと議論し共同作業を進めることはむずかしいのだ。そのむずかしいことに対して何の対策もなく無防備に立ち向かおうとするなんて、利口ではない。だから、ちゃんとそれ相応の技術を準備する必要がある。
普段、知っている人と、知っている事柄ばかりを使って、慣れた仕事のフローしか回していないと、そこから離れた場合のむずかしさがイメージできない。互いに専門領域や文化の異なる、知らない人とでは、会話をすること自体さえむずかしいことが想像できないのだろう。
しかし、実際は、文化や専門性の異なる者同士での会話はむずかしい。
しかも、そんな間柄で、いっしょに何か新しいものを生みだすという目的で議論を交わそうとすると、むずかしさは天井知らずとなる。
そもそも相手が話していることが聞き取れなかったりする。
何を話しているかわからないけれど、何がわからないかもわからなかったりする。しかも、お互いにそういう状態になる。
そんな状態で、議論ができるはずがない。
議論どころか、相槌すら打てないのだから。
だから、必要なのは、このむずかしさをどう軽減しつつ、共同作業を成立させるかに関する技術である。
見えない話を見える化する
1つのポイントは話の見える化だ。
例えば、聞き取りにくい口頭での発話も文字として書き出すことで「聞き取れない」は最低限なくなる。
何という言葉かさえわかれば調べることもできるし、相手に訊ねることもできる。
ポストイットに書き出す、ホワイトボードに書き出す。しかも、参加するみんなに見える形で。誰かひとりが話を聞き取れなかったとしても、書き出されていれば、その人も話に追いつくことができる。
書き出された言葉は「これはどういう意味ですか?」などと指差して質問できるようになる。「じゃあ、あっちのポストイットと関係しているんですね」などと文脈を見える化でき、理解が生まれやすい。
こういう些細なことも、知らない同士で会話を成り立たせる技術だ。
話の中身の関係性を図式化して、互いに整理をする作業をすることも共同作業を行う上では役に立つ。
見えない文脈を見えるようにする見える化の技術だ。
先のように話を聞きながら、ポストイットなどに内容の概要を書きだしておけば、そのまま関係性の整理にも役立つ。
もちろん、書きだすこと自体をワークにして、参加する個々人に書き出させてもいい。
例えば、先日もある新しいサービスに関わる登場人物として、どんな人たちが想定できるかを参加する10人くらいでそれぞれ書きだしたあと、その人たちのあいだでどのようなことが行われるといいか、あるいは、その人たちのあいだで解消できるとよいことは何かを視点として関係性の整理を行うディスカーションを行った。
結果、新たなサービスを考える際に必要なユーザーメリットやら、ユーザー体験の方向性など、いくつかの発見があった。
そのワークを主導しながら、期せずして出来たのは、いわゆる「ステークホルダーマップ」を描くことだった。
まあ、そのワークを通じてやりたかったことがステークホルダーマップという手法を使う場合と似たようなものだったから、意図して手法を用いなかったとしても同じような作業になるのは不思議なことではない。
だが、よくあるのは何のための手法なのかを理解せずにステークホルダーマップのようなサービスデザインの手法を採用することだ。
それだと単なる意味のない穴埋め問題を解く作業になりがちで、求めている議論ができないケースが多い。
必要な話を整理しやすくするための手法が、使い方もわからず使うとその使い方のほうが気になって必要な話そのものができなくなる。
話の見える化がポイントなのに、その話そのものをできなくしてしまうのだから、とんでもない。
技術の無さというのは、こうした問題を抱えている。
これだとせっかくの手法も技術となり得ない。
技術として用いるためには、「何故」それを使うのか? どういう結果を求めているのか? を理解しないと、作業は無駄になる。
知らない者同士が、まだいずれもが知らないことを生みだすための苦労を軽減するためには、どんな技術が必要か? 苦労とはどんな苦労で、何が要因で苦労が生じているのかという観点から、必要な技術を選ぶ必要がある。
外部との交流から生じる偶然を、計画的に盛り込む
いままでのビジネスにおける創造のシステムは、線形的でスタティックなものすぎたのだと思う。線形的にスタート(背景/目的)とゴール(目標)が定められた上でのプロセスやメソッド、人員の配置を線的に構成=システム化しようとしていたのだと思う。
新しい価値の創造は、個から生じるのではないと思う。
個人が発案するにしても、それは外の社会とつながった関係性のなかで個に発想が生じるのであって、大事なのは、その異質な外部との交流だ。
共創というのは、この外部との交流を自然に任せて生じのを待つのではなく、計画的に、組織の業務のなかに盛り込むことにほかなならない。
それを従来どおりの働き方、オフィスのなかに実装しようとしても無理がある。
外部との交流が計画的に起こるようにするための組織の体制、空間、ルール、契約などを整備しなおさないで、共創が可能になるはずはない。
『アンリ・フォシヨンと未完の美術史: かたち・生命・歴史』のなかにこんな記述がある。
フォシヨンもまた、すでに見たように、作品の制作における偶然の介在に積極的な意味を見出している。「手を讃えて」の中で彼はかなりの行数を偶然の問題に費やしているのだが、それによれば北斎やユゴーのような描き手にあっては、「偶然とは生命の知られざるかたち、目に見えぬ諸作用と明晰な構想との出会い」にほかならない。偶然は、意思に基づく探求と手の働きによって生かされることで、かたちの誕生に参与する。
ここで書かれた「偶然」に同じように期待するのが、共創だ。 芸術家たちがコミュニケーションがむずかしい外部としての素材の物性とともに創作に臨むときに、偶然の「かたちの誕生」から新たな作品の創造に出会うことができるように、共創の活動に参加する者たちも、異質なものとのコミュニケーションのなかから偶然、形成されるものなかから新たな価値創造のタネを見出し、拾い取ることで創造を可能にする。 そして、それは上の引用にもあるような「意思に基づく探求」と異質なものとのリアルなコミュニケーションに積極に身を投じることからしか生じ得ない。
偶然の参画を得ながら、ほとんど冒険のようにしてなされていく
上の引用に続く、こんな記述も参考になる。
逆に、精神が何らかのかたちを生み出そうとする過程とは、何の障害もない具現化なのではなく、「生の現象の中で展開するのであり、言い換えれば規則を欠いた運動において、試行を通じて、ある部分では偶然の参画を得ながら、ほとんど冒険のようにしてなされていく」と、『かたちの生命』では述べられている。
「何の障害もない具現化」ではないのは、共創も同様だ。
最初に述べたとおり、共創はそもそもむずかしい、障害のある環境に身を投じることからはじまる。そして、その障害を活かすことこそが共創である。
上の引用中の「生の現象の中で展開するのであり、言い換えれば規則を欠いた運動において、試行を通じて、ある部分では偶然の参画を得ながら、ほとんど冒険のようにしてなされていく」といった記述などは、共創そのものを指した言葉のように僕には感じられる。
このあとには「一見過誤や退行、失敗と見える偶然の働きとは、かたちの生成を阻害する要因なのではなく、むしろ新たなかたちを生み出すものである」という記述が続くが、「一見過誤や退行、失敗と見える」のような出来事が起こるような配置を意図的にデザインすることは、共創を業務プロセスに組み込む際の基本的な技術だと言える。
そもそも変化そのものである歴史自体がそうした偶然に基づく創造をベースとして動いている。つまり、必要なのは、歴史においては当たり前におこる偶然を、どう計画的に発生させるかという技術だということだろう。
アンリ・フォシヨンと未完の美術史: かたち・生命・歴史
阿部 成樹 著
岩波書店
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* 本記事は、棚橋弘季 個人ブログ『言葉とイメージの狭間で』より厳選した記事をご紹介しています。
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