経営とデザイン―言葉とイメージの狭間で
ありもしないものに期待したり、不満を言ったり。
存在しないブラックボックス的な機能を勝手に仮定して、そこに自分たちの責任を転嫁する思考停止の状態を見かける頻度が増えている。
責任転嫁の対象は、存在はするがその責任を必ずしも担っていない相手だったり、あればよいがそんなもの存在するわけがない架空の存在だったりする。
よくある「隣の芝生は青い」的なものも同じだ。
目の前の問題の解決をまずは自分で引き受けようとするよりも、架空の責任主体を仮想して、そこに期待したり不満をぶち撒けたりする。
そうまでして、自分自身で問題の解決をしようとしないのだ。問題に晒されて苦しむことより、みずからの知的労力を費やすことのほうが嫌だというのだろうか。あまりにバイタリティに欠ける生き方だ。
経営や、デザインが不足している
そもそも自分だけで解決しようとしてしまうのが間違いでもあって、本当に頼れる人にいっしょに解決してもらえるよう相談すればよいだけだ。
なのに、そうした現実的な行動はしようとはせずに、ただただ問題解決を自分で引き受けることなく、まさに神頼み的な形で外部化しようとする。
当たり前だが、そんな神のような存在しないものに、どんなに期待しても、いくら不満を言っても、何も解決するはずはない。
それどころか、その思考停止の姿勢で行うありもしないものへの責任転嫁の行為自体が周囲にネガティブな雰囲気を醸成させてしまう。
誰かがそうやって自分の問題を他人に責任転嫁しはじめれば、そのまわりにネガティブな雰囲気を蔓延してしまう。それが余計に自分を取り巻く状況を悪くする。いわば自業自得だ。
だけど、そんなことさえ、思考停止の人たちは気にしてもいないし、気づきもしない。自分で考えよう、自分で問題の状況を把握してみようという姿勢がないと泥沼に陥ってしまう。どうか、そのことに気づいてほしい。
足りないのは、問題解決に向かう具体的な方法だ。
ありもしないブラックボックスに期待するのではなく、どうやって解決するのかを、具体的に見える化すること、記述すること、設計&計画することだ。
解決のために使えるもの――つまりリソースだ――を明らかにして、それを現実的に機能するよう配置することである。
そう、思考停止の人たちに足りない行動は、経営であり、デザインなのだ。
謝赫の「画の六法」における経営
さて、ここで「経営」などという言葉を使うと、すぐに自分に関係ないと考える人がいるだろう。もちろん、企業経営の意味での経営であれば、そうかもしれないが、何も経営とは企業のみを対象にするものでは本来ない。
経営とはすこしも他人事ではない。誰にとっても。
それは単に使えるリソースを把握し、自分(たち)の目的のためにどう効果的に配置するとよいかを考えることだからだ。
それなら誰だってやればよいことである。
企業経営とは、何を経営するか?が違うだけだ。
会社を経営するのは経営者に任せても、自分の生活や人生は各々が経営することだろう。
そのことを理解するために、経営という言葉の語源を辿ってみるとよい。
というのは、松岡正剛さんの『山水思想』にこんなことが書かれているからだ。
「経営」は経済用語ではなかったのだ。経営とは面取りなのである。配置なのである。布置なのだ。
中国・斉(479-502)の時代の画家・謝赫(しゃかく)という人が、著書『古画品録』のなかで「画の六法」というものを提唱しているという。そのなかに含まれることの1つが「経営位置」なのだそうだ。
気韻生動(きいんせいどう)
自然の気が画面にいきいきと表れていること
骨法用筆(こっぽうようひつ)
現象の本質を筆がとらえていること
応物象形(おうぶつしょうけい)
絵が万物の形に従っていること
随類賦彩(ずいるいふさい)
応物を色で支えること
経営位置(けいえいいち)
コンポジション・配置を大事にすること
伝模移写(でんもいしゃ)
正確に対象を描写すること
「経営位置」は、絵のコンポジションのマネジメントなのだ。
つまり、与えられたイメージのリソースをどのように配置することで、絵という目的を効果的に達成するかという位置=レイアウトの経営である。
よく言われるように、企業経営とは、ヒト、モノ、カネ、情報といったリソースを、社会的な価値創出という目的達成のために効果的、効率的にマネジメントし、その活動を継続するためのものだ。それは絵を描きあげるという目的のために、与えられた資源をどう効果的かつ効率的に用いることで、それを達成するかという画業における画家のマネジメントと、リソースマネジメントとコンポジションに関する思考であるという基本的な面では同じである。
こうしたかたちで、経営という語の起源のひとつをみるとき、何もそれが企業経営者だけが行うものではないことに気づくだろう。
そして、それが目的達成に関するリソース配分、コンポジションの問題だと。
ツッカーリのディゼーニョ・インテルノ
元が絵のコンポジションの問題であるとおり、経営することとデザインすることは元より重なる知的作業だ。昨今のデザイン経営なる考え方を待たずともそうであることにあらためて注目するとよい。
このことを理解するために、今度は16世紀後半から17世紀初頭にかけてのマニエリスム期の画家であり芸術理論家であるフェデリコ・ツッカーリ(1542-1609)が1607年の「絵画、彫刻、建築のイデア」というエッセイの中で明らかにした、ディゼーニョ・インテルノという概念をみてみたい。
グスタフ・ルネ・ホッケは『迷宮としての世界―マニエリスム美術』のなかで、ツッカーリ自身のことばも引用しながら、「ディゼーニョ・インテルノ disegno interno」をこんな風に説明している。
最初に〈わたしたちの精神にある綺想体〉が生まれる、とツッカーリはいう。これを要するに、ある〈イデア的概念〉、ある〈内的構図〉Disengo Interno である。かくしてつぎにわたしたちはこれを現実化し、〈外的構図〉Disegno Esterno へともちこむことに成功する。〈内的構図〉は、さながら同時に視るという観念でも対象でもあるような一個の鏡にもくらべられる。というのもプラトンのさまざまなイデアは、神が〈神自身の鏡〉であるのにひきかえ、〈神の内的構図〉であるのだから。神は〈自然の〉事物を創造し、芸術家は〈人工の〉事物を創造する。
Disengoは、ここで構図と訳されているが、デッサンであり、デザインでもある。画家は内なるデッサン(Disengo Interno)を、現実における物質的なデッサン(Disegno Esterno)へとみずからの技術とキャンバスや絵具などの物理的な素材(リソース)をもって変換する。
ようするに頭のなかで描いたデザインを、使用可能なリソースを用いて実装する。
先に中国の画家の謝赫が言ったことと基本的には同じで、つまり経営なのだ。
しかし、ここでツッカーリが物質的なデッサンの前に内的なデッサンを置いているというところが歴史的には重要な点だ。
というのも、ツッカーリの時代であるマニエリスム期においては、それまでの盛期ルネサンスの時代がミメーシス(自然の模倣)を重視したのと違い、現実世界に囚われない画家によるオリジナルのイメージの創造へと向かいはじめていたからだ。画家は現実の世界をそのまま描くのではなく、画家自身が内的に創造したイメージを描くことに、みずからの存在価値を置き換えた時代だ。
ようは、世の中に存在しないものを頭のなかで構成した上で、実際の社会に実現してみせるデザイン的行為がここに生まれたわけである。
デザインの誕生
designという語が英語として登場してくるのは、16世紀後半から17世紀初頭にかけてのことだと言う。 いずれにしろOEDによると、英語としてのdesignが出てくるのは1593年が最初です。「絵」の用法では1638年が最初。要するにその界隈ですね。そしてぴったりその時期の1607年、「ディゼーニョ・イン…
もちろんオリジナルのイメージの創造といっても、すべてを1から創造するわけではない。マニエリスム期の絵画は、描かれる人物の首や手足が極端に長くなったり、遠近法的構図がデフォルメされたりしていても、基本的には現実の図像を編集して組み直したものにすぎない。
とはいえ、それは盛期ルネサンスまでは支配的であったミメーシスの掟からの解放という意味では、確かに芸術的創造性を一歩進めるものだった。
紙の上に投影された創意
マリオ・プラーツも『官能の庭』でこんな風に言っている。
ミメーシスの概念、つまりルネサンスに支配的な自然の模倣として芸術の概念は、実際には「止まれ、汝は美しい」なるポーズとして固定された静止的な世界を前提としていたが、いまや16世紀になると、心の内面でとらえられた世界のイメージは静止的どころか絶えまない変転にほかならない、とする理念が生み出される。まさにこれはウェルトゥムヌスの領国である。そこから芸術家にふさわしいのは、単なる自然の模倣から開放された表象としての、すなわち自律的な噴出によって紙の上に投影された創意としての「内的ディセーニョ」であるとみなされるようになった。
目の前にある物事をそのまま写しとるのではなく、いったん観察などを通じて集めたイメージのリソースを、内なる創意を用いて、みずから思い描いた形に描きなおす。それはその後に物質的に現実のものとする作品の頭のなかの設計図といえる。
ようするに、内なるデッサン、それはデザインすることにほかならない。
ここにおいて、頭のなかのリソースマネジメントと、外部の現実世界のリソースマネジメントが別々に起動する契機が生まれた。
芸術家のように、そして、プロフェッショナルなデザイナーや、経営を担う経営者のように、頭のなかの構造と、現実にそれを実行することの両方をうまくつなぎとめられればよい。
だが、最初に書いたような形で頭のなかでのイメージのみが先行してしまい、その現実世界への実装には無関心な人も生じてしまうようになった。
限られたリソースをどう配置するかという視点が欠けたまま、頭のなかに理想のイメージだけを築きあげてしまい、それと現実とのギャップがあると、どうしていいかわからず神頼み的になるか、不満を言い続けるかのいずれかになってしまう。
現実的なリソースマネジメントや実装の行為には関知しないことが起きてしまうのは、そうした理由からなのだろう。
18世紀に入れば、カントが物自体などと言って、頭の中と現実の物の世界に断絶を見いだしてしまうのも、ある意味、ツッカーリのディゼーニョ・インテルノという概念の発見、そして、デザインの誕生を契機にした大きな変化があったからだといえる。
現実にあるリソースをマネジメントする
すこし話が逸れた。
けれど、頭の中の理想の世界に閉じこもったままになってしまうのを避けるためには、結局のところ、現実に取り扱い可能なリソースにちゃんと目を向け、それでできることは何かという現実的な問いに常に向き合うようにすることだ。
ブルーノ・ラトゥールが『地球に降り立つ』で、地球1個分をはるかに超えたリソースを日々要求し続ける人類がいま、限られたリソースの深刻な取り合いがはじまったことで「私たち全員の足下で地面が一斉に崩れ始めている」のだと指摘し、誰もが生き続けるために必要なテリトリーの喪失の危機を迎え、「私たちの住処も、所有物も、すべてが攻撃対象となっている」現状を憂うとき、その解決の方法として提示するのもやはり、リソースマネジメントのための「記述」である。
何をすれば良いのか。第一に、これまでとは違う記述を作り出すことだ。地球が私たちのために用意してくれたものをすべて調査し目録を作る。それが「人間」であるなら1人ずつ、それが「モノ」であるなら1つの存在ごとに、1センチ1センチ測って詳細に記録を残す。記録を作らずして政治行動に訴えることなど、どうしてできようか。(中略)見えなくなった居住場所を記述し直そう。そういう提案をしない政治はすべからく信頼できない。記述の段階を省いて前に進むことなどできない。〔記述抜きの〕予定表だけの提案はどんな政治的虚言よりも恥知らずなものだ。
記述できないもの、描写できないもの、あるいは数値的な計測ができないものは、管理・コントロールすることはできない。
自分たちが何を扱えるのかというリソース管理を、記述or描写or数値的計測して把握する形で行おうとしていないのなら、経営もデザインもできない。
多くの思考停止な人が陥りがちなのは、この記述や描写や数値的計測の欠如である。
それをしないから現実は見えなくなり、現実から切り離され、ありもしない理想のイメージに振り回されて、何も有効なことができなくなる。
それは苦しいのでジタバタと足掻くことになるのだが、結局、事態をどうにか制御しなおすための記述も描写よ数値的データも持たないから、いまさら経営も、デザインもしようがない。
地球に降り立つ/ブルーノ・ラトゥール
百科全書的な知が必要になってきているということだろうか。「アクターのリストはどんどん長くなる」。アクターネットワーク理論を提唱する社会学者のブルーノ・ラトゥールは最新の著作『地球に降り立つ』でそう書いている。明らかにテリトリーの奪い合いが起こっている利用可能な土地や資源が限定された地球のうえ、お互いに利害的…
まずは、記述や描写や数値的計測をはじめることだ。
「どのように?――いつもと変わらない方法で」とラトゥールはいう。
つまり、底辺から上に向かうボトムアップの方法で、調査を駆使して再構成を行うのである。
隣の青い芝生にばかり目移りしていないで、ちゃんと身の回りの現実のできごとにちゃんと目を向けるべきだ。それを自分の言葉で記述し、描写し、数値的計測を行うことだ。
そうしたテクストデータ、視覚データ、数値データの蓄積をもって経営し、デザインを行うこと。なんでもブラックボックスに入れて神頼みするのではなく、自分の手元にある現実としっかりつながったデータを元に、現状をちゃんと見えるようにした上で、計画およびマネジメントを行うのだ。
経営にしても、デザインにしても、他人事にできる人なんて1人もいない。
それはありもしない理想ではなく、現実を生きるための基礎スキルなのだ。
僕らは、現実に降り立つ必要がある。
地球に降り立つ: 新気候体制を生き抜くための政治
Bruno Latour (原著), ブルーノ ラトゥール (著), 川村 久美子 (翻訳)
新評論
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* 本記事は、棚橋弘季 個人ブログ『言葉とイメージの狭間で』より厳選した記事をご紹介しています。
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