
継承されない伝統技術を、いかに活用するか
未来の実践を呼び起こすデジタルアーカイブ
グローバルな自動車部品メーカーとして、自動車製造に用いられる技術をはじめ、さまざまなシステムや製品に関わる技術と開発のノウハウを持つ、株式会社デンソー。モビリティ社会に革新をもたらす技術とソリューションを先導し、多様な価値観と幸福感に応える「幸福循環社会」をビジョンとして掲げています。
FabCafe Tokyoは株式会社デンソーとともに、継承されない伝統技術のデータアーカイブを行うプロジェクト「TECHNO GRAPHICAL DATA ARCHIVE(以下、『TGDA』)」を2023年にスタートしました。
職人の手技をスキャンし、デジタルアーカイブにすることで伝統技術の継承と活用の可能性を模索する同プロジェクト。その価値と展望についてお伝えします。
プロジェクト概要
「TECHNO GRAPHICAL DATA ARCHIVE」、通称『TGDA』は、株式会社デンソーとFabCafe Tokyoが共同で取り組む、東海道をベースに消えゆく職人技をデジタルアーカイブし、その価値を再発見するためのプロジェクトです。
世界中の伝統文化が天災、戦争、気候変動や人口減少などの原因により衰退の一途を辿っています。特に人の手技を要する伝統工芸の分野においては、技術革新による自動化/効率化が進み、伝統技術の消失に拍車がかかっているなか、日本では伝統工芸職人の高齢化が進み、口伝の技や知識が記録/継承されないまま消失するケースが多くあります。
このプロジェクトは古くからものづくりの伝承が盛んに行われてきた東海道において、伝統工芸職人の「熟練の技術」をデジタルデータ化し、世界中からアクセス可能なデータプラットフォームにアーカイブすることにより、ローカルな文化の保存と継承を促進させることをミッションとしています。
デンソーが思い描いた「人間とテクノロジーが協働する」ビジョン
「TGDA」の活動のきっかけとなったのは、デンソーが2023年に行った、自分たちの持つテクノロジーが社会に貢献する未来のストーリーを描き、漫画として見せる取り組みでした。
デンソーの技術によって生み出せる未来を「DENSO Future Story」としてコミカライズ。Webサイトや冊子の形で公開しました。これまでデンソーがその技術を発揮してきた自動車業界だけではなく、より幅広い領域で「ユーザを幸せに導く」製品やサービスを模索するために生まれたストーリーでした。

その中のひとつ「Creative Share Platform」の漫画で描かれたのが、伝統工芸の世界を舞台に、人間とロボットアームが協働する世界線。テクノロジーが人間の仕事を奪うのではなく、人間の可能性を広げるストーリーでした。公開された漫画は、ものづくり業界の方々からも好評価を得たといいます。
この未来像を現実世界にインストールするための取り組みこそが、「TGDA」でした。
職人を訪ね、アーカイブを続けた「TGDA」プロジェクト
TGDAは、アーカイブを通じて伝統工芸の技術の振興を目指すプロジェクトです。職人の技術を保存・継承するだけでなく、アーカイブの活用によって職人とデジタル技術の新たなコラボレーションを生み出し、職人さんへと還元することを目的に、プロジェクトを推進してきました。
その手段として、伝統工芸をつくる際の職人の手の動きを3Dスキャンし、その技術のアーカイブを行ってきました。将来的には手技の技術は誰でもアクセスできるようにWEB上に公開され、前述した「技術の継承」「活用」「還元」を目指していきます。
デンソーとFabCafeは、両者に縁のある東海エリアでフィールドワークを行い、東海道沿いで活動する職人たちに協力を仰いでいきました。メンバーは現地に通い、職人との対話とスキャニングを重ねてきました。伝統工芸職人の技能をデジタルデータ化し、世界中からアクセス可能なデータプラットフォームにアーカイブすることにより伝統工芸の保存と継承を促進させる。そんなミッションと未来への展望を共有することで、少しずつ協力者を増やしていきました。
伝統を復元・継承する、絞り作家・早川嘉英さん
協力者の一人になってくれたのは、名古屋市有松町に伝わる「有松絞り」のなかでも「嵐絞り」と呼ばれる特有の絞り技法を手がける、復元絞り作家の早川嘉英さん。早川さん自身もまた、かつて途絶えてしまった伝統工芸の技術を復元しようと活動に取り組む作家の一人でした。

早川さんが取り組む「嵐絞り」は、明治12年ごろに有松地区(現在の名古屋市有松町)で生まれたとされる絞り染めの技法です。長い棒に布を巻きつけ、そこに糸をかけ、縮めて、染めるという工程を踏むことで、嵐の時に降る雨風のようなダイナミックな柄が生まれるといいます。かつては嵐絞りだけでも100種類以上の技法が存在し、一人の絞り職人が一つの独自の技法を持っている状態だったとされています。

しかし、その作業が重労働であることや、技術の習得に時間がかかることから、1980年代には最後の嵐絞り職人が亡くなり、一度は伝承が途絶えてしまったといいます。有松で代々染色を担ってきた家に生まれ、自身も絞り作家として活動していた早川さんは、先人たちの思いと技術を受け継ぐべく、独自の改良を重ねながら、自己流の嵐絞りの技法を完成させていきました。

技法の伝統的な部分を受け継ごうとしながらも、早川さんは時代にあった表現を追求していくことが大事だと考えます。「『表現が技法を開発する』ということが、伝統を守ることにつながると思う」と語る早川さん。伝統的な技法を、現代のテクノロジーを駆使してアーカイブしようとするこのプロジェクトにも、理解を示していただきました。
初期フェーズからクリエイターと伴走し、調査と実験を同時に行う
このプロジェクトは、具体的にどんなプロセスで進んでいったのでしょうか。プロジェクト初期から振り返ります。デンソーから相談を受けたFabCafeは、幾つかのフェーズに分けて企画を進めていきました。現時点までの歩みは、大きく2つのフェーズに分けて振り返ることができます。
第1フェーズで行ったのは、リサーチを兼ねた職人技のスキャンと、それらのデータをデジタルアーカイブとして残す、Webプラットフォームのプロトタイプ構築です。「DENSO Future Story」で描いた未来を実現するためにはどうすればいいのかを考えるために、まずは調査と実験を重ねていきました。

職人へのヒアリングを通して、メンバーは伝統工芸の後継者がいない現状と、産業としての伝統工芸も縮小し、稼ぐことが難しくなっていくという職人たちの経済的な問題を知ります。現状を知ったメンバーは、TGDAのコンセプトとして「どうすれば消えゆく伝統技術を継承できるのか」、「職人の手技の価値を高めるために、何が必要なのか」という2つのテーマに向き合うことを決めました。


また、このような挑戦的な企画を実現させるためには、テクニカルな知識を持つクリエイターとの協働が必要でした。FabCafeのクリエイターネットワークを活用し、高い発想力や実装力を持つクリエイターに初期段階から参加してもらうことで、技術的な懸念点を解決しながらコンセプトやプロトタイプを練り上げていきました。また、ディレクター側にも技術・表現への理解があるメンバーでチームを組成。クリエイターと共に形を作りながらクイックに検証することができました。
関わったクリエイター

いわさわ ひとし(岩沢兄弟)

堀川淳一郎

Lasse Kusk

NOZOMI AKUTSU
第2フェーズでは、リサーチ対象の職人を増やし、更なるスキャンとインタビューを実施。さらに、Webプラットフォームのデザイン制作を進め、より実装に近い形へとブラッシュアップしていきました。
Webプラットフォームイメージ


プロジェクトによる還元を、双方向に起こしていくこと
職人の手技をスキャンし、デジタルアーカイブすることで、後世の人々にも伝統技術に触れる可能性を残していく。そんなプロジェクトを実施するなかで大切にしてきたのは、「プロジェクトによる影響が、職人と社会、双方向にいい形で還元される」ことでした。
職人の技を模倣するべく、テクノロジーによって人間の動きをスキャンすることで、「人間の指でしかできない技術」と、「機械だから実現できる技術」のそれぞれがあることを把握することができる。そこには、職人に対するフィードバックの可能性があります。
デジタルアーカイブされた3Dスキャンデータから逆算する形で有松絞りについて考えてみると、人間の動きでは難しい技法や、職人がまだ見つけられていなかった技法を発見できる可能性があります。そうした技法へのヒントを職人が知れば、クリエイティビティへの刺激となって新たな技法を追求することができるかもしれません。

技法に関する知見だけでなく、金銭的なフィードバックや関係性の獲得といったメリットも生まれるかもしれません。孤立しがちな職人と世界をデジタルアーカイブによって繋ぎ、オープンにすることで、伝統技術に関心のある人々と繋がる可能性があります。デジタルアーカイブの購入や、閲覧に対する対価の支払いなどを通じて、職人に直接還元することもできるかもしれません。
このプロジェクトにおいて重要なのは、伝統技術を後世に残すことだけではありません。制作したデジタルアーカイブを、消えゆくものを残すためだけに使うのではなく、アーカイブの活用によって職人と社会の双方向に価値が生まれることを目指しています。

「TGDA」が探る、未来の実践を呼び起こすアーカイブ
なぜ、デンソーが「TGDA」というプロジェクトに取り組むに至ったのか。そこには「幸福循環社会」への実現と並列して、「企業の技術」の在り方への問いがありました。
技術を持つ中小企業の多くは、テクノロジードリブンの考え方になりがちです。「いかに速く」「いかに軽く」「どんな機能を持つか」という、性能に対する評価指標が大きな判断基準となっていきます。しかし、デンソー デザイン部に所属するインハウスアーティスト・吉岡さんはビジョンドリブンの重要性を語ります。
「『その技術によって誰を幸せにするのか?』というビジョンが重要だと考えています。テクノロジードリブンとビジョンドリブンを両立することができれば、より強い企業になる」。
企業が持つ技術と知見をビジョン起点で捉え直すことで、新しい事業提案につながっていく。「TGDA」で起きていることは、中小企業における技術の価値を転換するロールモデルになれるかもしれません。
デンソーは、企業活動を行うなかで2つのビジョンを持っています。1つは「経済活動を止めない」こと。もう一つは、「多様な価値観、幸福に応える」こと。TGDAは、「職人さんや、ものづくりに関わる人」の価値観と幸福感に応えるプロジェクトであると言えます。
TGDAが生み出すデジタルアーカイブが後世に与える影響は、未来に生きる世代に選択肢と実践のヒントを残すこと。もし、もとある伝統工芸や伝統技術が継承されず途絶えたとしても、後世に残されたデータアーカイブに触れた人々が新しく解釈し、活用することができるかもしれません。
そうした人々による実践は、新しい文化を生み出していくことでしょう。アーカイブをきっかけとして生まれる文化の実践が、職人へと還元されていく世界を目指して、取り組みを進めていきます。
デンソー デザイン部 Webサイトでも、本プロジェクトの取り組みについて紹介されています。
Credit
基本情報
- クライアント:株式会社デンソー
- プロジェクト名:TGDA- TECHNO GRAPHICAL DATA ARCHIVE
- プロジェクト期間:2023年3月〜
体制
- 株式会社デンソー
- 吉岡 裕記
- FabCafe・ロフトワーク
- プロジェクトマネジメント:大澄 楓
- クリエイティブディレクション:金岡 大輝、岩倉慧、森田湧登
- テクニカルディレクション:伊藤友美、土田 直矢
- プロデュース:平賀 理沙
- 制作パートナー
- リサーチデザイン:いわさわ ひとし(岩沢兄弟)
- スキャニング・テクニカルディレクション:堀川淳一郎
- Webクリエイティブディレクション・スチール撮影:Lasse Kusk
- Webデザイン:NOZOMI AKUTSU
- スキャニングにご協力いただいた方々
- 村瀬 裕さん(有松鳴海絞り企画製造 株式会社スズサン 4代目会長 絞り下絵職人)
- 早川嘉英さん(嵐絞り 絞り作家)
執筆:乾 隼人
編集:後閑 裕太朗