ウェルビーイングとものづくり、イノベーションのこれから
前編:自然や社会、人の心を「よいあり方」へ移行するデザインとは
持続可能社会への意識の高まりやコロナ禍をきっかけに、世界的に価値観の変容が進む中、今改めて「Well-being(ウェルビーイング)」への注目と共感が高まっています。ウェルビーイングとは、その人らしくよく生きるあり方や、心地よい状態のことです。
今後、人々の暮らしや社会の中でウェルビーイングを実現するためのサービスや製品が求められることが予想されますが、企業がそのニーズに応えるには、従来の大量生産・消費型の価値観や開発プロセスを根本的に変えていく必要がありそうです。
素材・材料開発と技術研究領域のイノベーションに特化したクリエイティブユニット「MTRL(マテリアル)」は、「マテリアルはいかにして新たな価値をもち、産業を向上させ、人々のより良い幸福を生み出すことができるのか」を問いに掲げ、まだ見ぬマテリアルの可能性を探る試みとして、「Material Driven Innovation Awards(MDIA)」を開催。2022年1月〜3月まで、人や地球環境のウェルビーイングに貢献する、革新的なマテリアルを募集しました。
2023年2月3日、ウェルビーイングとサービスやプロダクトの開発はいかに接続できるのか、MDIAを起点にその可能性を探るトークイベントを「コンバーティングテクノロジー総合展2023」にて開催。本レポートでは、このイベントの様子を前後編にわたってお届けします。
前編となる本記事では、MDIAに審査員として参加した、NTTコミュニケーション科学基礎研究所 上席特別研究員 渡邊淳司さんが「今なぜウェルビーイングが注目されているのか」、その背景を紹介したキーノートセッションの様子をお伝えします。
企画:柳原 一也/ロフトワーク MTRL クリエイティブディレクター
執筆・編集:岩崎 諒子/Loftwork.com編集部
写真:山口 謙之介/ロフトワーク マーケティングリーダー
テクノロジーの研究から、人間の存在、そしてウェルビーイングへ焦点がシフト
NTTコミュニケーション科学基礎研究所 渡邊淳司さん 今日は、ウェルビーイングやものづくりについて、いくつかの取り組みを通して考えてきたことをお話しさせていただきます。
僕自身はNTTの研究所に所属していますが、遠隔に情報を送る際、音声や映像だけでなく、「触覚を送る」ということを研究してきました。例えば、目の前の机をトントンと叩くと、東京から700キロ離れた山口の机が震える「公衆触覚伝話」という装置があります。このように、遠くの人と振動を伝え合うことや、お互いの存在を感じ合うことで、どんな行動の変化や心理の変化があるかを主な研究テーマとしています。
それから、「心臓ピクニック」という自身の鼓動に触れるワークショップも行っています。これは、自分の心臓の動きを小さな箱の振動を通して手のひらの上で感じるという、あたかも、自分の手で心臓を持っているような不思議な体験をするワークショップです。
これらの活動を行いながら、触覚を通して「人の存在」を感じることや、人の「存在自体の価値」を感じることが大事だなと思うようになって。「自分の研究活動は、どう定義できるだろう。テクノロジーの文脈とは違う言葉で表現できないだろうか」と考えていく中で、「ウェルビーイング」という言葉に出会いました。
ウェルビーイングについて調べていくと、ウェルビーイングにはユニバーサルな定義はないんですね。領域や研究分野ごとに違っていて、例えば、WHOのWebサイトには「Health is a state of complete physical, mental and social wellbeing, and not merely the absence of disease or infirmity.(健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。 日本WHO協会訳)」と書かれています。つまり、健康の定義の中に既にウェルビーイングというものが含まれている。これを転用して「ウェルビーイングとは、肉体的にも精神的にも社会的にも満たされた状態」と表現されることもあります。また、World Happiness Reportでは、ウェルビーイングは人生に関する評価と、感情体験によって測定されています。他にも、様々な定義のされ方があります。
このような、ウェルビーイングの定義が具体化されないことに関して、研究上さまざまな考え方がありますが、一つの考え方として、ウェルビーイングを「構成概念(Construct)」と捉えるものがあります。
「構成概念」とは、状態やメカニズムを説明するために人為的に構成された概念で、その概念の存在を仮定することで、新しいものの見方を提供し、それをよくするようにさまざまな働きかけを行えるようになります。私の場合、ウェルビーイングを「それぞれの人の存在自体の価値を尊重できる、よいあり方」と捉えると、先ほどの触覚研究とのつながりが考えやすいというところがあります。
「存在自体の価値」を、人間から自然まで拡張する
「存在自体の価値」という観点でもう少しその範囲を広げていくと、その対象は人間だけではなく、「自然の存在も尊重しよう」という考え方になります。SDGsもウェルビーイングも、あらゆる存在自体を尊重しようという点では同じ方向をめざしていると、僕は思っています。
ここで、2021年にWHOが発表した図を紹介します。左側が“Economic driven”、つまり「経済原理に駆動されるもの」。そこからパラダイムシフトの矢印があり、矢印が向かう先の右側の円形にはSDGsの17つの目標と、真ん中に「ウェルビーイング」と書いてあります。これからは経済的な動機だけで人や社会が動くのではなく、人の心の豊かさや社会の持続可能性が重要視され、経済もこの新しい価値観によって回っていくというメッセージです。
日本にとって、ウェルビーイングは緊急の課題
このウェルビーイングという概念は、現在の日本でこそ重要視されるべきものでもあります。こちらは、日本の人口の変遷と予測です。19世紀の終わりから急峻に立ち上がって、2004年に頂点を迎え、そこから急激に減っていく。
人口が増えて経済的にもどんどん豊かになっていた1990年頃までは、多くの人がそのこと自体に幸せを感じていました。しかし、この先人口が減少し、経済もその規模が小さくなっていくことがわかっている状況で、経済的な物差しだけで、どうしたら人々は幸せを実感できるでしょうか。これからは、経済的な数値だけではなく、一人ひとりにとって大切なことやその存在自体の価値について、より一層考えていく必要があるはずです。
実際、今、そのような流れが生まれつつあります。例えば、日本の一部の政策でもウェルビーイングが指標として設定され、それが一つの重要な評価軸として据えられています。ちなみに、世界でも、先ほど紹介した「World Happiness Report」では、「0 の段が最も低く10 の段が最も高い「はしご」を想像し、考え得る最悪の状態を0、考え得る理想の状態を10としたときに、現在の自分はどの段にいると感じますか?」という質問を、国ごとにたくさんの人にして、それを平均することによって、各国のウェルビーイングの数値化を行っています。2023年のレポートで最も高い値はフィンランドで7.8です。日本は6.1でした。この点数のつけ方自体は、満足の捉え方の文化差などもあり、さまざまな議論がなされていますが、継続的にウェルビーイングを測定すること自体は重要なことです。もちろん、ウェルビーイングで高い点を取ることに必死になって辛い状態になるとしたら、それは本末転倒です。
つまり、そのやり方については試行錯誤の段階かもしれませんが、現在、「これから何に価値基準を置き、物事を考えていくべきなのか」が、世界的にも日本の政策としても、大きく変わりつつあるのです。
ウェルビーイングをいかに捉え、ものづくりに生かすか
今回のイベントのテーマである、「ものづくりにおけるウェルビーイング」を考える上では、その人が満足しているかどうかや現在何点かということだけでなく、「なぜ満足なのか」、「いつ満足なのか」を具体的に知る必要があります。
実際、これまで、たくさんの人に「どういうときに、よい時間を過ごしたと感じましたか?」と聞いてみたところ、「勉強していたとき」「集中していたとき」「社会貢献をしていたとき」「自然の一部であることを実感できたとき」など、みんなバラバラな答えが返ってきました。このように、個人個人のエピソードからウェルビーイングを捉えようとすると、一見まとまりがありません。そこで、「ウェルビーイングは個人それぞれ固有で同じものは一つもない」としてしまうと、ウェルビーイングを実現するためのプロダクトやサービスをどう作ればいいのか、分からなくなってしまいます。
そこで、バラバラなウェルビーイングのエピソードをカテゴライズすることを考えました。具体的には、自分のことに関する要因(I)、親密な人との関わりの要因(We)、社会との関りの要因(Society)、もっと大きなものとの関りの要因(Universe)という、スケールの大きさによって分類しました。例えば、食の場では、以下の図のような要因があります。このようなウェルビーイングを感じられる要因をカードにした「わたしたちのウェルビーイングカード」を作成し、これを使ってプロダクトやサービスを評価する、ということを始めてみました。
ケーススタディとして、今回の「Material Driven Innovation Awards」で大賞を獲った、五十嵐製紙の「Food Paper」というプロダクトがあります。これが、一体どんな点で「ウェルビーイングをもたらすのか」を、ウェルビーイングカードを使って紹介したいと思います。
Food Paperは、地元の廃棄野菜を使用することで、社会に一つの循環を作っており“Society”の視点から「社会貢献」をしているでしょう。さらに、この造られた紙を使って誰かにメッセージを送る製品を売り出すことで“We”の視点から「関係作り」に寄与しています。また、フードペーパーのアイデアは、五十嵐製紙の経営者のお子さんが考案されたものを、伝統工芸士であるお母さんが紙漉きの技術によって形にしたのは、親子の「愛」あるいは、子供の「成長」の物語を感じました。
このように、ウェルビーイングのエピソードは一人ひとり固有なものではありますが、それらをカテゴリーに分類していくことで評価可能となり、プロダクトやサービスづくりにつなげられるのではと思っています。
これからの経済はウェルビーイングに対して寄り添っていく必要があります。その中で、「個人」に対しては、日々変わっていく一人ひとりのウェルビーイングにどう寄り添えるか、という視点から価値を提供することが大事になります。もう一つ、社会の視点からは、ウェルビーイングをただひとつの会社が提供しようとするのではなく、ものづくりに関わるステークホルダー全体を共創パートナーとして捉えなおし、資源や環境も含めた全体をうまく機能するように設計すること。そして、そのための状況をみんなでつくっていくこと。
これら二つの視点が、これからのものづくりやサービスデザインには必要なのではないでしょうか。
ウェルビーイングをより詳しく知りたい方へ・参考書籍
渡邊 淳司/ドミニク・チェン 監修・編著「わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために」
論考:
伊藤亜紗/生貝直人/石川善樹/岡田美智男/小澤いぶき/神居文彰/木村大治/小林 茂/田中浩也/出口康夫/水野 祐/安田 登/山口揚平/吉田成朗/ラファエル・カルヴォ