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林 千晶 2019.12.25

10年ぶりの再会。ロフトワークから独立起業した2人の今 | これからの話 #01

2009年、ロフトワークを飛び出した2人が、新しいクリエイティブの会社をつくった。株式会社スキーマ。設立から10年の時を経て、志連博彦(しれんひろひこ)さんと橋本健太郎(はしもとけんたろう)さんに“これからの話”を聞きに行った。

●株式会社スキーマ
WEBサイト構築やスマートフォンアプリのUI/UXデザイン、グラフィックデザイン、CI/VI計画など、デザインを軸としたクリエイティブ業務全般を幅広く担当する制作ディレクター集団。2009年設立。http://llschema.com/

下北沢に呼び出された夜……あれから10年

林千晶(以下、林): 2人とも久しぶり!

志連博彦さん(以下、志連): お久しぶりです、千晶さんまったく変わってないですね!

橋本健太郎さん(以下、橋本): 実は、僕たちも「千晶さんと諏訪さんに、会いたいね」と話していたところだったんですよ。スキーマも創業から10年がたって、ロフトワークも20周年。節目だなあと。

: 20年の中で、ロフトワークを辞めて2人で会社をつくった人って、実は志連くんとハシケンが初めてだったんだよね。

志連: そうなんですね。あの頃の僕らはロフトワークのことが好きすぎて完全に社内で浮いてましたからね。朝礼で急に自社サイトの改善提案とかして変な雰囲気になったりして(笑)。今でいう意識高い系の社員だったんですよ。

: そういえば私、呼び出されたこともあったじゃない?

志連: ありましたね! 当時、僕とハシケンと川上くん(現・ロフトワーク京都勤務)での“下北会”というのがあって、仕事のことを3人で夜な夜な語り合っていたんですよね。

橋本: あるとき、ついに「もう林さんを呼ばないと埒が明かない!」となって、林さんを下北沢まで呼びつけるっていう……。

志連: その頃のロフトワークはまだ30人くらいで、仕事もめちゃくちゃ忙しく、スタッフ全員が朝から晩まで働いてましたよね。みんなオフィスの中で仕事ばっかりしてたんですよ。

でも、諏訪さんと千晶さんの周囲にはとんでもない大人たちがいっぱいいて、ふらっと社内に業界の大物が現れるみたいなことが日常茶飯事で。当時の僕らからすると、「こんなすごい会社なんだから、もっと社内外の活動を広げたい!」って思ってました。

(写真右から)株式会社スキーマの代表でデザイナーの志連博彦さん、パフォーマーの橋本健太郎さん。

「会社をつくる発想はないの?」突然入ったスイッチ

: そんな2人が、起業を考えたのはなぜだったの?

橋本: 僕ら2人とも、辞めるとか、会社をつくるとか、全然考えてなかったんですけどね。

志連: 同期入社の仲良いメンバーが1人いたんですけど、いつもの感じで、深夜2時くらいの道玄坂のモスバーガーに行き、ふとその人がけだるい感じで言ってきたんですよ。「っていうかさ、会社をつくるっていう発想はないの?」と。そのときに、「あっ」とスイッチが入った感じでした。

当時はカヤックとかバスキュールとか社外の面白い人ともたくさん会っていたんで、同世代で何かを始めたら面白そうだなってイメージが湧いたんだと思います。

橋本: 僕も、「インベーダーの30周年記念サイト」のプロジェクトを一緒に担当したとき、志連との相性がすごくハマった感覚があったんですよね。企画や提案の土台を志連が作ってくれて、僕がプレゼンする、という役割分担。

しかもそのとき一緒に組んだチームが新進気鋭のクリエイターで、「もっとこういう最先端にいるプロフェッショナルな人たちと直接仕事がしたい!」と憧れを抱いたのも大きかったです。

志連: 実際は、僕が退職して1年後にハシケンが合流し、そのタイミングで起業しました。2人で経営する形をとったのは、たまたま相性がよかったのもあるけど、ロフトワークの2人代表で経営するスタイルにけっこう影響を受けてるんですよ。

: そうなの?

志連: 千晶さんと諏訪さん、2人でいつもすごいケンカしてたじゃないですか。社員が引くくらい(笑)。

: うん、してたね。あの頃がいちばんケンカしてたかも。最近お互い忙しくなっちゃって「そういえばケンカしてないね!」ってこの間も諏訪くんと話していたくらい。

橋本: 僕と志連はほとんどケンカしたことないのが、違いといえば違いかもしれないですけど。

志連: 僕からすると、そのケンカすら本気で仕事している感じがして、かっこよく見えてたんですよ! 真逆の性質を持った2人が手を組んで、イノベーティブな事業を生みだしていく……という姿を見ていたことが、今のスキーマの土台になっていると思います。

手を差し伸べてくれた人には今でも頭が上がらない

: 2人がつくったスキーマでは、どんな仕事をしているの?

志連: スキーマは機動力を強みにしていて、10人ほどの少人数でクリエイティブの仕事をやっています。この10年は、海外も含めてあちこちに行ったり来たりしながら、出会った人たちとさまざまな仕事を重ねてきました。

: 10年を振り返ってみて、どんなことを感じているか聞いてみたいな。大変なこともきっとあったと思うから。

志連: そうですね……起業してしばらくたってから、僕、Twitterに「会社つくったら人生がドラマチックになった」と書いたことがあって。30歳にして、はじめて目の前にあることが“自分ごと”になったんですよね。

それまでは何となく学校に行かなきゃ、就職して働かなきゃ、みたいに生きてきたけれど、会社をつくってはじめて「自分は何をしたいんだっけ?」と考えるようになりました。それが一番大きな変化ですね。

10年もやっていると、そりゃあいろんなトラブルもありましたけど、何が起きても苦労とは思わなくなりました。

橋本: 僕は逆で、独立直後、落ちるところまで落ちてしまったんですよ。会社を辞めたら、思っていた以上に自分が何にもできなくて。思考停止に陥って、志連にもかなり迷惑をかけました。

当時28歳だったんですけど、それなりに仕事がこなせるようになって、完全に調子に乗っていたんです。当たり前ですけど、自分の会社だから仕事は自分で取ってこなきゃいけないし、助けてくれる人は誰もいなくて、案件も、はじめから最後まできちんと着地させて請求するところまで責任を持たなきゃいけない。

今までの仕事は、会社に守られていたからできていたんだと痛感しました。自分ができることとできないこと、向き不向きなどの特性も。

志連: それで僕がある日、「大阪でも行ってみれば?」といきなり焚き付けたんです。

: え、大阪? 支社とかがあったわけじゃないよね。

志連: ないです、ないです。それに何かつながりがあったわけでも、大きな思惑があったわけでもなかったんです。「スランプで苦しむぐらいなら、大阪とかに行ってみれば?」みたいなノリで。今思うと突飛ですけど……。

橋本: でもそれを素直に実行してしまうのが僕なんです(笑)。この10年、僕ほど志連の言うことを聞いて行動してきたヤツはいないと思いますよ。

何のツテもなく3ヶ月くらい大阪に滞在して、とにかく毎日朝から晩まで、人に会うアポを入れまくりました。一度会った人に「次の飲み会、行っていいですか?」と聞いて顔を出して……というのを繰り返して、地道にネットワークをつくっていったんです。

: ネットワークゼロの状態から毎日アポで埋めるって、そうそう簡単なことじゃないよね。だって、お金もかかるじゃない?

橋本: そうなんですよ。最後は僕、東京に帰るお金もなくなっちゃって。しかも当時、新婚だったのに(笑)。

でも必死で人と会っていたら、コミュニティが重なるようにかみ合っていくのがわかりました。その中からようやく東京での仕事が生まれたりして、やっと立ち直ることができたんです。あのとき、手を差し伸べてくれた人には今でも頭が上がりません。もちろん、「大阪に行け」といってくれた志連にも。

「稼ぐ仕事は僕がやる。君はヒマがあったら未来をつくれ」

: これまで2人ともいろいろなことを乗り越えて今に至ると思うけれど、これからの10年のこともぜひ聞きたいです。

志連: スキーマとして10年間クリエイティブの仕事をしてきましたが、ここを一区切りとして、これからやりたいことを改めて話しているところなんです。

今すごく考えているのは、いわゆる“デザイナー”は、次に何をデザインしていったらいいんだろう、ということ。20世紀的なデザインは質感のある「もの」を生み出すことでしたが、これからは経験や体験の価値を高め、目に見えないものをクリエイトしていく必要があるんだろうなと。

橋本: とはいえもちろん資金は必要なので、「もの」のデザインは僕がやっていけばいいと思っているんです。稼ぐ仕事は僕がやるので、そんなヒマがあったら志連は未来をつくれ、と。たぶんこれから先も、そんなバランスでやっていくんだと思います。

: ハシケンは、何かやってみたいことはないの?

志連: 最近、すっかり「サウナの人」になってるよね。

橋本: あ、そうですね。今年2月くらいから、サウナにものすごくハマってしまって。スマホも何も持たず自分と向き合う時間が自分に合ってたんでしょうね。2ヶ月後にはサウナを買ってしまいました。

: サウナを買ったってどういうこと!?

橋本: テントサウナを、秩父の自宅に。東京にいるときも、アドレスホッパーならぬ“サウナホッパー”になっていて、気づいたらメディアにいくつも取り上げられるようになっていました。

もはや引き下がれないところまでいってしまってるので、仕事として「もっとやっていいんじゃない?」という話にはなっているんですけどね。

: 結論として、2人ともあまり“稼ぐ仕事”はやっていない……?

志連: うーん、そうですね。10年目にして全然稼げなくなりましたね(笑)。

: これからの10年も、2人らしくぜひがんばってほしいです。最後に、2人にとって「ロフトワーク」とは何だったのか、改めて聞いてもいい?

志連: 僕はロフトワークで仕事をして、一気に視野が広がったんです。もともとクリエイティブは好きだったけど、ロフトワークに入っていなかったら、インターネットの可能性とか、シリコンバレーを含む海外の動きとか、まちづくりとか、そうしたところまで関連づけて考えることはなかったと思います。

だから僕にとってはロフトワークは、いろいろな出会い——セレンディピティにめぐりあい、世界が広がった場所ですね。

橋本: それは僕も同じですね。志連とロフトワークで出会わなかったら、一緒に会社を経営することもなかったわけですし。

: 「セレンディピティ」という言葉がここで出てきたのは、私としてもすごくうれしい。今日は10年ぶりに、元気な2人の顔が見られてよかったです。

というかこれからの10年、いっそ、ハシケンの「サウナ」にかけてみたら(笑)?!

2019年9月18日、スキーマのオフィスにて。

取材を終えて(林千晶)

はじめてロフトワークを卒業した人に対談を申し込んだ。スキーマ。そう、あえてスキーマ。みんなは冗談だと思ったかもしれない。でも20周年を迎えるにあたって、私の胸の中でくすぶる火種を消せるのではないか、そんな期待があった。

でも、会ってみてわかった。火種は消えることはないんだな。「なんでオフィスが渋谷なの? なんでクリエイティブなの? っていうか、だったらなんでロフトワークやめたんだよ〜〜〜(涙)」

そんな未練にまみれつつ、20周年を迎えるのも悪くないか。

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出雲路本制作所と考える、
ショップ・イン・ショップという
場の仕組みで“ずらす”ことの価値