設計が役に立つ理由―言葉とイメージの狭間で
一発勝負のイベントごとなどで、何かしら予期せぬ出来事に出くわしたときにも、慌てることなく臨機応変に正しい対応を選んで実行することができるかどうかを左右するものは何か?
それは外でもない。
事前の設計と準備だ。
何ができればよいかを知っている
リアルタイムで進行するさまざまなイベントごとで、監督やファシリテーターとしての役割を担っているとき。
多くの場合、予期せぬ出来事に際して焦ってしまうのは、突然目の前に現れた想定外の事柄に、その先、どうすればよいかの指針が見当たらなかったりするときだろう。
状況が予期せぬ方向に変わってしまった際、あらかじめ想定していた段取りが役に立ちそうもないことに気づいた場合にプランBが用意されてれば良いが、そううまくいくことは滅多にない。用意されたプランBが有効だとしたら、それはやはりその状況になりうることも予想できていたということだ。まったく想定外の出来事が起きてしまえば、事前に用意されたプランが手元にあるなんてことはない。
けれど、ちゃんと自分で設計したもの、あるいは設計者の設計意図がちゃんと理解できていれば、想定外の事態にも臨機応変な態度で、設計変更がその場でできたりする。
この場合、「設計意図が理解できている」とは、どんな設計になっているかだけではなく、何を目的としてどういうロジックでその設計になっているかをわかっているということだ。
うまくいく方法に頼らない
何かをうまくいかせたかったら、当たり前だが、どうしたらうまくいくかをちゃんと考えないとダメだ。
そんな当たり前のことなのに、人は、どうしたらうまくいくかを考えるのではなく、うまくいく方法に頼ろうとしたりしてしまう。
何が目的で、その目的達成のために人々に動いてもらうとしたら、どうしたら目的に向かって人人が考え作業をしてもらうことができるか、途中でどんな障害が起こり得るか、どんな環境・条件をつくれば思考や作業は効果的・効率的なものになりえるのか。そうしたことを自分で考え、シミュレーションしながらトークイベントにせよ、ワークショップにせよ、アイデアソンやハッカソンにせよ、イベントの設計をするのと、単にありがちなアイデア発想の手法を順番に並べて何か設計したつもりになるのとは大きく違う。
前者であれば、思うように、参加者間のコラボレーションが機能しなかったり、アイデアの質や量が増えなかったしても、良い方向に手を加えることができる。ようは、想定していた状況と現実の場面との違いがわかるので、そのギャップをいかにすれば埋められるかということがその場で考えて調整すること、場合によってはプランを差し替えることもできるからだ。
しかし、後者のように、単にありものの方法論を並べただけの設計とも言えない設計しかしていないと、結局どういうメカニズムで発想が生まれてくるかの想定がほとんどできていないのも同然なので、現場で起きていることを設計プランと照らし合わせて問題点を明らかにしてプランをその場で調整することはできない。だって、結局は自分でなぜその方法だとうまくいくのかの仮説がちゃんと組み立てられてないわけだから、現場で組み立てに不具合がでたとき、それを組み立て直すなんてことができるわけないからだ。
目的と手段
シンプルにいえば、目的と手段をちゃんと考えるということだ。
考えるたつもりで、ありものの目的っぽい言葉と、ありきたりの手法をただ並べて手段をそれでイベント設計したつもりになるのではダメだ。そんなのは何も考えるたことにならない。考えるとはそういう現実とは無関係の既知の素材でパズルをすることではない。
考えるとは現実を考えることだ。
自分を含む現実の物事、人々が、いまの現実の状態からいかに理想と考える現実の状態に移行してもらう際、現実にどんな作業がどんな物事を通じて、どんな環境・状況の変化を経ながら、移行が達成できるのかを具体的に考えることだ。
現実レベルで、何を実現したいのか、その実現したいものの現実的な形や量、その他、質的なものをイメージし、それが行われる際の人々の思考や作業について考え、それらをどのように用いれば、実現したいものの実現に寄与するようになるのか、そのためにはどんな思考や作業の手順が必要で、それにはどんな道具や作業環境、どのような形で人々が会話し、どうすれば満遍なく参加者から言葉が発せられるようにできるか、意見が噛み合わなかったりするのをどう手助けできるか、生まれてきたたくさんのアイデアをどう収束させ、どう、つぎのステップの具体的な物事のプロトタイプに落としてもらえるようにできるか、等々。
特に、考えるべき対象としての人間については厄介で、それを「人間」と一括りにしていると間違えるのは、人には立場があり、立場ごとにミッションがあり、ミッションごとに判断基準や価値観、用いる思考の方法も異なるのだから、設計者がそういうことを視野に入れず、自分の立場だけで人間の行動についてのシミュレーションをしてしまうとまったくうまくいかない。他人の立場を理解するというのは、こうした設計の際にもとても重要だ。
考えるということは、そういう人間も含めた具体的な物事の流れと動き、その原動力となるものと障害になるものについて考え、いかに具体的な目標の達成を可能にするかを設計・シミュレーションすることだ。
考えることは、言葉や抽象的な図などを使って行うかもしれないが、それらを用いて考えることはあくまで現実の人、物事とその現実の状態の変化についてなのだということを忘れてはならない。
頭の中のイメージと現実のアウトプット
ここまではイベント(トークセッションやワークショップ、ハッカソンなど)を想定して、事前の設計やシミュレーションに基づく準備が、ある意味生き物であるリアルタイムに行われるイベントの実行の際の臨機応変な対応を可能にするのだということについて書いてみた。
イベントは生き物で、現場で何が起こるかわからないから設計などはほどほどになどというのは単に考えること、設計することをサボろうとしているにすぎない。
現場で起こることにリアルタイムに即座に対応するためには、何をどう実現しようとしているかの緻密な設計と、それでも起こりえる想定外の出来事に対して、人生経験というものも含めて異なる対処の仕方をその場で組み立てるための事前の調査&シミュレーションによって、どれだけ手持ちの素材の蓄積がされているかにかかっている。
現場対応しようにも、その場で組み立てるための素材とそれを使った組み立てのスキルがなければ、現場対応なんてできるはずもないのだから。
ここまで書けば賢明な人は、このことが何もイベント設計・実施の際だけに限ったことではないことに気づくだろう。
なんといっても、設計やシミュレーションを要する多くのプロジェクトが、ひとと物事が複雑に絡みあった現実の状態をそれとは異なる別の状態に変化させるにはどうすればよいかのプランを考え、それを実行していくものであり、そのプランニングと実行そのものもやはり人や物事からなるプロジェクトメンバーおよびステークホルダーの間で行っていくものなのだから。
そこにイベント設計・実行同様、いや、それ以上に設計と事前のシミュレーションに基づく準備が必要になるのはいうまでもない。
こういうときに僕は、マニエリスム期の美術理論家のツッカーリの考えを思い出す。
最初に〈わたしたちの精神にある綺想体〉が生まれる、とツッカーリはいう。これを要するに、ある〈イデア的概念〉、ある〈内的構図〉Disengo Interno である。かくしてつぎにわたしたちはこれを現実化し、〈外的構図〉Disegno Esterno へともちこむことに成功する。〈内的構図〉は、さながら同時に視るという観念でも対象でもあるような一個の鏡にもくらべられる。というのもプラトンのさまざまなイデアは、神が〈神自身の鏡〉であるのにひきかえ、〈神の内的構図〉であるのだから。神は〈自然の〉事物を創造し、芸術家は〈人工の〉事物を創造する。
グスタフ・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界―マニエリスム美術』からの引用だが、創造的な仕事における内的なイメージとそれを現実に実現した外的な現実的アウトプットの関係について述べたものだ。
デザインの誕生
designという語が英語として登場してくるのは、16世紀後半から17世紀初頭にかけてのことだと言う。 いずれにしろOEDによると、英語としてのdesignが出てくるのは1593年が最初です。「絵」の用法では1638年が最初。要するにその界隈ですね。そしてぴったりその時期の1607年、「ディゼーニョ・イン…
https://note.com/tanahashi/n/ncfbdd3d77658
綺想体とツッカーリが呼ぶ、新たな構想を頭のなかで生み出す力と、その頭のなかの綺想体を現実のアウトプットに落とし込んでいく力の両方が芸術家には求められるとツッカーリはいい、その頭の中と現実をつなぐ方法としての遠近法やその他リアルに現実の物事を写実する方法とそれを人間の創造性によって幻想的に手を加える芸術家的な技術の準備の必要性についても述べる。
結局、このツッカーリの〈内的構図〉と〈外的構図〉の関係と同じことがあらゆる創造的な仕事はもちろん、自分の人生においても創造は実はつねに必要とされるわけだから、必要なのだ。
生きるためには方法論は邪魔
そういう創造性に苦心することなく、安易にありきたりの方法論や手法に頼ろうとすることほど、無駄なことはぼくはないと思う。
方法論や手法がダメだというのではなく、それ以前に現実を自分目で見て感じて行う設計やシミュレーションがないまま、それらを用いようとする姿勢が無駄を生むと考えている。
社会的なものを組み直したいならば、伝統的に思い描かれてきた社会的な紐帯の循環と定型化を脇に置いて、他の循環する存在を探索することが必要だ。この探索をもっと容易にするために理解すべきことがある。それは、「既に組み合わさった社会的なもの」を、「社会的なものを組み直すこと」と混同すべきでないということであり、そして、私たちが探し求めているものを、社会的な素材で作られた何かしらのもので置き換えないことである。
と『社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門』で書く、ブリュノ・ラトゥールの思想は、こうしたことを考える上で役に立つ。
社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門/ブリュノ・ラトゥール
まず循環がある。循環があるからつながり、変化が起こり、生成が生じる。社会があるのではない。社会という固定化された何ものかがあると仮定して、それを探そうとするから見つからない。そうではなく、社会が生成されてくる様に目を向けてみるといい。いや、目を向ける必要がある、その把握しきれないほど天文学的な数の生成の複数…
https://note.com/tanahashi/n/n9558f8c16147
ラトゥールはありきたりの社会学的な説明のみですべての社会を捉えることに警鐘を鳴らし続ける。特に新たに生まれてきた社会を既存の枠組みや言説で捉えてしまうことに。
そうではなく、既存の社会的な素材ではなく、個々人が現実から見つけてきた現実の素材を用いて、新たな綺想を生み、それを新たにレポート化しながら外的なものとして組み立てることを強く勧める。
けれども、公平無私に近いものは、先に検討した4つの不確定性の発生源を展開させることで得られる一方、関与することは、集合体の一部を組み合わせるのに役立つ第5の不確定性によって可能になる。つまり、関与することとは、何らかの〈失敗と隣り合わせの報告〉という非常に慎ましやかなメディアを通して、集合体にアリーナ、フォーラム、スペースを用意し、再現前化させることである。そして、〈失敗と隣り合わせの報告〉は、たいていの場合、テクストだけからなる微弱な干渉にすぎない。
したがって、研究をするということは、共通世界の材料を集めたり積み上げたりするという意味で、例外なく、政治を行うことである。問題なのは、どのような種類の収集とどのような種類の組み上げが求められているのかを決めることにある。
「テクストだけからなる微弱な干渉にすぎない」ような現実とつながらないものでは「失敗と隣り合わせ」のものにしかならないのだ。
「問題なのは、どのような種類の収集とどのような種類の組み上げが求められているのかを決めること」。つまり、現実の世界において政治的に振る舞うことだ。
そうした現実の動きを効果的にするために、自分たちが何を実現しようとしているのかという綺想の具体化とそれを実現するためのプロセス、手段のシミュレーションに基づく設計が大事になる。そして、設計を現実に落とすための技術や素材の準備。
こうしたことを真摯に行えるからこそ、物事はうまくいく。
逆にこういう苦労を避ける人生は果たしてどうなんだろう?と思ってしまう。
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社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 (叢書・ウニベルシタス)
Bruno Latour (原著), ブリュノ ラトゥール (著), 伊藤 嘉高 (翻訳)
法政大学出版局
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グスタフ・ルネ・ホッケ (著), 種村 季弘 (翻訳), 矢川 澄子 (翻訳)
岩波書店
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* 本記事は、棚橋弘季 個人ブログ『言葉とイメージの狭間で』より厳選した記事をご紹介しています。
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