「操作」を超える「願い」の設計
──「行動変容デザイン」の探求(第3回)
変わりたいという強い想いを持ち、組織が行動したのに、現場が変わらない。そんな状況と問いに向き合いながらプロジェクトの実践を積み重ねてきたロフトワークメンバーが、行動変容デザインについて探求する本連載。
「どうすれば一過性の成果で終わらず、人々の行動変容を再現性高くデザインできるのか」——本連載を通して、その探求の過程を記します。
※本記事は、全3回連載の第3回となります。
前回まで追ってきた「どうすれば人は動くのか」という問い。答えが見えてきた——そう思った矢先に、もうひとつの問いが立ち上がってきました。「それは、本当にやっていいのか」という問いです。
ここまでの探究で、私は2つの問いに向き合うことになりました。
第1の問いは、技術と方法の問いです。「人はなぜ動かないのか。どうすれば動くのか」——これに対する暫定的な答えが、ここまで2回の記事でお話ししてきた「文脈の解明と介入の設計」というプロセスです。文脈を解明し、そこに合った介入を選ぶ。そのプロセスの設計が、行動変容に再現性をもたらす。
第2の問いは、姿勢と倫理の問いです。「そもそも自分は、誰のどんな行動変容を目指しているのか。そして、それはやっていいことなのか?」——文脈を知ることは、相手を深く理解することであると同時に、時として相手を精度高く動かす力を手に入れることでもあります。だからこそ私は、この倫理的な問いかけから逃げられなくなりました。
連載の最終回となる今回は、この第2の問いへの向き合い方と、ここまでの探究を統合した現時点での仮説についてお話しします。
行動変容は「操作」になりうる
文脈を解明し、それに合った介入を選ぶ。そのプロセスで再現性はある程度まで担保できる——そう考えられるようになった頃、ひとつ気づいたことがあります。行動変容を設計しようとする側は、文脈に接近する前から「この行動を取らせたい」をすでに決めてしまっていることが多い、ということです。
本来は、文脈への接近が先にあるべきです。接近してはじめて、「こちらの行動を促した方がいい」と、目指すべき行動自体が変わることがあるからです。逆に「取らせたい行動」を先に固定してしまうと、文脈を無視することになる。これは倫理的な問題であると同時に、効果の面でも問題があります。第2回で書いたとおり、文脈を切り離した介入は再現性を失う。行動を先に固定することは、まさにその「文脈の切り離し」を自ら招く行為だからです。
ここで、冒頭で触れた第2の問いが、具体的な形を取りました。
「人間の無意識の非合理性につけ込んで、誰かにとって都合の良い行動へと誘導してしまっていいのか?」
この葛藤は、行動変容のデザインに向き合えば向き合うほど、避けて通れないものになりました。
「良い変容」のための線引きと、3つの視点
私はこの問いに対して、「操作」ではなく「変容」を促すための、ひとつの境界線を持つようになりました。
ただ、その境界線を示す前に、正直に認めておかなければならないことがあります。
後で述べるように、私は「作り手が、ユーザー本人がまだ言葉にできていない方向を、先んじて願う」ことに可能性を見出しました。しかしこれは、いま私が「操作」と呼んだもの——作り手が決めた方向へ相手を動かすこと——と、何が違うのでしょうか。
正直に言えば、両者は地続きです。 願いも操作も、相手に影響を与えようとする力の行使である点では変わりません。「自分は願っているだけで、操作はしていない」という弁明は成り立たない。むしろ、相手が判断力のある大人であればなおさら、この「願い」は容易に独善へと転びます。
だから問題は、力を行使するかどうかではありません。その力を、後から確かめられる形にしているかどうかです。
その最初の手がかりが、この境界線です。それは「ユーザーが自ら気づき、意味を発見・選択する余白が残されているかどうか」。 作り手が決めた単一の答えへ誘導するのが「操作」。ユーザー自身が気づきを得て、自発的に行動を選択できる余白を設計するのが「変容」です。
ただし、ここで正直に書いておかなければならないことがあります。「余白を残した」と作り手が宣言するだけでは、操作と変容の境界線は引けません。むしろ、「操作されている」と気づかせない設計こそが、最も効果的な操作になりうる——これはダークパターンの研究が示してきた不都合な真実です。
だからこの境界線は、作り手の主観ではなく、設計を後から検証できる条件として持つ必要があると考えています。境界線を意識するために、私が現時点で大切にしているのは、次の3つの視点です。
ひとつ目は、振り返ったときにユーザーが「自分で選んだ」と感じられるか。 介入の瞬間に気づかれないことよりも、後から振り返って自分の選択として受け取れることの方が、変容の手がかりになります。
ふたつ目は、介入を開示しても効果が消えないか。 「実はこういう仕掛けをしました」と説明されたとき、ユーザーが「それでも自分はその方が良かった」と言えるか。逆に開示した瞬間に怒りや裏切られた感情が生まれるなら、それは操作だった可能性が高い。
みっつ目は、ユーザー本人が定義する長期的な幸福に寄与しているか。 作り手の目標達成や事業のKPIではなく、ユーザー自身が「自分の人生にとって良い変化だった」と語れる方向に行動が変わっているかどうか。
この3つは、変容を保証する万能の指標ではありません。けれど、「願いさえあれば操作にならない」という油断を防ぐためのチェックポイントになります。 願いという力を、作り手の主観の中に閉じず、外から検証できる場所に置くこと。それが、この3つの役割です。
そしてもう一つ、付け加えておきたいことがあります。接近は、この願いを生む燃料ではあっても、願いの正しさを保証するものではありません。 だからこそ、接近して定めた願いも「結論」ではなく「仮説」として持つ必要がある。接近の結果、目指す方向そのものが覆ることを許せるなら、それは願いです。方向を固定したまま、文脈を“動かすための材料”としてのみ使うなら、それは操作に近づきます。接近なき願いが押し付けになるのと同じように、更新を許さない願いもまた、操作へ転ぶのです。
経営層と現場の間にある、構造的な溝
では、その「願い」は、誰の文脈に立って描けばいいのか。この問いを考えるとき、ひとつ向き合っておきたい会社経営の構造があります。それが、「経営層と現場、それぞれが見ている景色が違いすぎる」という溝です。
経営層は、業界のトレンドや社会課題への洞察から「未来はこうあるべきだ」という方向性を描きます。一方、現場の人々は、日々の業務・今週の締め切り・自分が担う責任という、まったく別の時間軸と関心の中で動いています。
ここで誤解されがちなのは、これを「視座が高い人と、視座が低い人」の対立として捉えてしまうことです。実際にはそうではありません。経営層には経営層の文脈(株主・市場・組織の力学)があり、現場には現場の視座(業界の変化への直感、ユーザーへの距離の近さ)があります。両者は、見ているものも背負っているものも違うだけで、どちらが優れているわけでもありません。
問題は、この異なる文脈同士が、互いの言葉で語られていないことです。経営の言葉で「こうすべきだ」と現場に届けても、現場の文脈に翻訳されていなければ、人は動きません。頭では理解できても、自分ごととして腹落ちしないからです。
ここで私たち作り手に求められるのは、複数の文脈の間に立つ「翻訳者」としての役割だと思っています。経営層の方向性をそのまま現場に押し付けるのでも、現場の言葉をそのまま形にするのでもなく、両方の文脈に深く接近し、その間を行き来する。そして「この人にどうなってほしいか」という願いを、両者の文脈の上に立って描く。
「作り手の願い」という考え方
この探求の過程で、私は山梨大学が主催するデザインプログラム(ADP)を受講しました。その中で千葉工業大学の安藤昌也教授の講義を受け、「作り手の願い」という考え方に出会いました。これが私の仮説の核のひとつになっています。
安藤先生は「作り手の願い」を、こう位置づけています。私の理解で要約すると——
使い手が現在の利用状況ではあるべき姿を認識できない場合でも、作り手は積極的に将来のあるべき利用状況を想定し、ユーザーが今は気づけていなくても、やがて気づいて望ましい姿へと自ら歩んでいけるよう、その方向性を先んじて願う。そしてその願いは、ユーザーが置かれた状況を深く理解してはじめて描けるものだ。
私はこの考えを受けて、AIが普及しつつある現在の状況について、自分なりにこう考えるようになりました。
AIがアルゴリズムによって最適化された選択肢を次々と提示してくれる時代には、人はますます「自分が何をしたいか」を言語化する必要がなくなっていきます。気づかないうちに、快適さに流されるまま動いているはないか。だとすれば、ユーザーの言葉をそのまま形にするだけの設計は、アルゴリズムと同じ方向に人を流すことになりかねません。そういう時代だからこそ、ユーザーの文脈を深く知った上で「この人にどうなってほしいか」を願える第三者の存在が、これまで以上に重要になる——私はそう感じています。
行動変容を促す者は、当事者への接近を経て初めて、当事者よりも高い視座を得ることができる。接近なき願いは押し付けになり、接近なき視座は、現実から遊離した正論になってしまう——この指摘は、経営層と現場の溝という問題とも深く呼応しています。
安藤先生はさらに、この願いを「Be(なってほしい姿)」「Become(気づいてほしいこと)」「Do / Have(できる・持てる)」という3つの階層で整理しています。
Be(なってほしい姿)は、このサービスを使い続けた先に、ユーザーに「最終的にどんな存在・人になってほしいか」という変容のビジョンです。ここを最初に、具体的に願うことから設計が始まります。
Become(気づいてほしいこと)は、そのBeへ橋を架ける層です。ユーザーがBeの姿に近づくために、「このサービスを使い続けることで、何に気づいてほしい・わかってほしい・意識できるようになってほしいか」を願う。変容は、作り手が直接行動を起こさせるのではなく、ユーザー自身の気づきを通して起こる——この気づきの余白を設計することが、変容と操作を分ける境界線になります。
Do / Have(できる・持てる)は、一番下の層であり、「このサービスを使って何ができるか」という、現在のニーズに応える従来のデザインそのものです。安藤先生はここを「ふつうのデザイン」と呼びます。BeとBecomeは、この足元のDo・Haveの上に積み上がっていく。
いずれの層でも、主語はユーザーです。安藤先生は「あくまで主体がユーザーになるよう、語尾を真似て言語化する」——たとえば「(ユーザーが)〜する人になってほしい」と書く、と強調しています。
現時点の仮説——3つの統合
ここまでの探究をまとめると、行動変容を再現性高くデザインするための現時点の仮説は、「3つのアプローチを統合すること」になります。それぞれ単体では機能の限界があり、組み合わせることで補い合えると考えています。
ひとつ目のアプローチは、システム思考で変革の方向性の仮説を立てること。
システム思考とは、社会や組織をバラバラの要素としてではなく、相互に影響し合う構造として捉える考え方です。誰のどんな行動を変えたいかを俯瞰しながら、初期仮説を設定するのに優れています。ただし、高い視座から全体を見渡す分、現場の人々が日々どんな文脈の中で生きているかには届きにくいとも言えます。
ふたつ目のアプローチは、UXデザインのアプローチでユーザーの文脈に接近し、作り手としての願いを定めること。
UXデザインとは、ユーザーが製品やサービスと関わる中でどんな体験をしているかを深く理解し、設計に活かす考え方です。エスノグラフィックリサーチなどを通じてユーザーの現実に深く接近し、Be/Become/Doを設計します。ただし文脈を掴んだとして、「どんな変容を目指すか」という方向性は、接近する前に仮説として持っておく必要がある。だからこそ「システム思考による仮説立て」が先に来ます。そして、ここで仮説が大きく更新されることもあります。
みっつ目のアプローチは、行動科学のフレームで行動阻害を診断し、介入を選ぶこと。
行動科学とは、心理学や認知科学の知見をもとに、人がなぜその行動を取るのか・取らないのかを解明し、設計に活かす考え方です。文脈に基づいて何が行動を阻んでいるかを特定し、それに合った手法を選びます。ただしその知見は文脈を切り離した実験室で得られたものが多く、単体で使うと再現性を失う——それが2本目の記事で書いた問題でした。
これらの3つのアプローチを統合することで初めて、それぞれの限界を補い合うことができます。そしてこの3つは一度で完結するものではなく、介入の結果を見ながら①の方向性に戻り、更新し続けるサイクルとして機能します。
行動変容デザインの可能性
「行動変容」という言葉には、どこか操作的な響きがあります。私自身もこの言葉を使うたびに少し引っかかりを感じてきました。だからこそ、この探究が必要だとも考えています。
この3回の連載を通じて伝えたかったのは、「人が動かない」という問題は、正論や情報や手法の問題ではなく、文脈と姿勢の問題だということです。
裏を返せば、文脈に接近し、作り手として誠実に願いを定め、行動科学の知見を適切に使えば、行動変容はデザインできる可能性がある。私はそう信じて、この探求を続けています。
この仮説はまだ途上にあります。実際のプロジェクトの中でしか検証できない問いも多く残っています。だからこそ、次にその文脈へ接近したい相手は、この記事を読んでくださっているあなたです。「自社のこの状況は、どの壁に当たっているのだろう」「この願いを、誰の文脈で描けばいいのか」——まだ整理されていなくて構いません。その問いを、一緒に解きほぐすところから始めさせてください。
行動変容デザインについて話してみたい方は、ぜひ一度ご相談ください。よき伴走者として、まずはあなたの状況を聞かせてもらうところから始めます。
ぜひ一度ご相談ください。よき伴走者として、まずはあなたの状況を聞かせてもらうところから始めます。








