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藤原 里美, 青山 俊之 2026.08.07

大学変革 #1 明星学苑 理事長
謳歌する学びの未来
──「みんなちがって、みんないい」の、その先へ

シリーズ「大学変革」

大学は、いま何を変えようとしているのか。18歳人口の減少とAIの台頭により、教育の前提そのものが揺らいでいます。本シリーズでは、大学の変革をリードする実践者を訪ねるとともに、幼小中高の現場や大学の外から教育を動かす人たちにも焦点を当てます。立場の違う声を重ね合わせながら、「大学という場」をどう捉え直せるのかを探っていきます。

「みんなちがって、みんないい」。

金子みすゞが100年前に残したこの一節は、多様性の時代を先取りしたことばとして、いまや教科書でもおなじみです。この詩の結びに、約1万4000人の園児・児童・生徒・学生を抱える学苑を率いる、ひとりの文化人類学者が「もう一言」を付け加えたいのだと言います。

——「組み合わせれば、もっといい」。

違いを認めるだけでは、まだ半分。違うもの同士を組み合わせたとき、常識を揺るがし、より大きな出来事が生まれるかもしれない。そう語るのは、メキシコ・マヤの村に住み込んだ文化人類学者であり、明星学苑の理事長として経営の陣頭指揮を執る落合一泰先生です。

日本の教育業界はいま、18歳人口が急減する「2035年の崖」を前にしています。大学の存続が揺らぐと同時に、AIの台頭で社会の前提そのものが目まぐるしく変わっています。情報やモデルケースがあふれ、選択肢は多いはずなのに、既存の枠組みやAIに「選ばされている」ような不自由さを感じることはないでしょうか。

そんな時代に、変化に適応するだけでなく、自らの意思で変化を面白がり「謳歌」する。自分の人生を他人に任せず、「自由と責任(自在に生きる力)」を発揮する。そんな学びの環境をどうつくるか——この問いを探求するべく、ロフトワーク主催のカンファレンス「Re:Creation」のセッション「マヤのフィールドから教育をつくりなおす」では、落合先生をお迎えし、モデレーターにシニアプロデューサーの藤原里美が登壇しました。

マヤのフィールドから教育をつくりなおす:スライド表紙画像

落合先生の人類学者としての「異文化を読み解く眼」と、学苑を率いる「経営者の視座」。この2つを交差させたとき、私たちの「学び」への向き合い方に、どんなヒントが見えてくるのでしょうか。

矛盾を「面白がる」ことで世界は広がる

「大学の運営や経営と人類学を結びつけて考えたことがなかったので、非常に新鮮だった」。イベント終了後、落合先生からそんな声をいただいた本セッション。

トークのなかで、落合先生は人類学者が行うフィールドワークの経験に触れました。「普段自分が寄って立っている価値観や、当たり前だと思っていることが通じないところに行くわけですね。そういう、自分を見直すような深い経験や『別の見方』というものが、会社経営(学校経営)に役立つという感覚があるのかもしれない」

こうしたボーダーを超える「越境」の視座は、明星大学で実践されている「クロッシング」という教育改革にも表れています。たとえば、生態学と倫理学の先生が同じテーマについて議論を交わす。あるいは、西洋史と文化人類学の教員が同じ教壇に立って「日本学」について議論する。落合先生は、その授業の様子を面白そうに振り返ります。

落合先生と藤原の対談の様子1

「歴史家は過去から現在に至るプロセスを層をなして作っていく。ところが、人類学者は現代の社会のことをやって現代の人たちの話を聞くもんですから、現在から過去を覗き込む。ベクトルが逆なんですね」

アプローチがまるで逆であることに、学生たちはちょっとショックを受けると言います。「矛盾してる」という意見も出れば、「視点や目的が違うから両方あり得るんじゃないか」と考える学生もいる。

「結構、面白がってくれるんです。この『面白がる』というところがポイントで、好奇心がクリエーション(創造性)の方に向かうかどうかの境目かなと思っています」

しかし、日本の社会や教育環境では、この「面白がる」心を育むのが難しい現実もあります。落合先生は、日本社会には「面白がる」よりも「役に立つかどうか」を重視するプラグマティズムが根強くあると指摘しました。

「高校に入ると、もう1、2年のうちに『君、文系? 理系?』ってやりますでしょ。もしかしたらまだ自分の関心がどこに向くか分からない柔らかい段階なのに、この科目は大学受験に『役に立つかどうか』という判断基準が働いてしまう。そうすると、せっかくの面白がる心というのが、どっかで曲がってしまうのではないかなと」

この課題について、日々大学などの教育機関とプロジェクトを行うモデレーターの藤原も強く頷き、実感を語ります。「大学を選ぶにあたって、点数が取れるか取れないかではなく、自分が興味を持って取り組めるフィールドがどこなのかというのはとても重要な視点ですよね。先生がおっしゃる『好奇心』が育っていないと興味軸では選べないなと思っています」

「役に立つか」という評価軸から一旦離れ、矛盾や違いを純粋に「面白がる」こと。その越境の姿勢こそが、自在に生き抜くための鍵になっていく。議論はそうした本質的なテーマへと熱を帯びていきました。

落合先生と藤原の対談の様子2

「普通」の枠から抜け出す──鍵は「越境」と「変数」

とはいえ、2人のディスカッションの最中で挙がったのは、大学で好奇心を育もうとしても、すでにその手前でつまずいているのではないか、という点でした。前段の好奇心を育むには、「大学だけでは限界」を口にした藤原は、さらに問いを遡らせます。「先生は幼稚園から大学まで全部見てらっしゃいますよね。一番豊かに育てられる時期は、どのぐらいだと思われますか?」

落合先生は、昨今の幼稚園や小学校が抱える課題として、家庭間のコミュニティ感覚が薄れている現状を指摘しました。以前は家庭同士のコミュニケーションで解決していた子ども間のトラブルも、今では「自分の子どものために何が有利か不利か」という視点ばかりが先行し、直接学校にクレームを投げて解決を迫るケースが急増していると言います。

こうした他者との繋がりを欠いた利己的な姿勢は、本来他者との関わりを学ぶはずの「人間教育」と、我が子の勝ち負けを優先する「偏差値教育」のどちらを優先するのかという二項対立の状況を生み出してしまっていると落合先生は続けます。

藤原からは、「核家族化が進み、親が子どもを大事にするあまりコントロールしてしまいがちになるのかもしれません」と、いち親としての視点から実感を込めて応えます。「子どもにとっての大人のモデルケースが、両親と先生というすごく狭い枠に縛られてしまっているケースが多いと思うんです」

「だからこそ、『普通』という枠に全然収まっていない、すごく自由で面白い大学の先生たちのような人がもっと社会に出てくることで、昔の親戚の中で担保されていた多様性みたいなものが再現できるんじゃないか。どうやって(出会う大人の)変数を増やしていくかに、私はロフトワークの仕事を通して取り組んでいるつもりなんです」

ロフトワーク シニアプロデューサー 藤原 里美

偏差値や親の価値観という「見えない枠」から抜け出すためには、枠に収まらない他者に出会い、そこへ越境していくことが必要不可欠です。そして、そうした学びのきっかけは、学校の教室のなかだけにあるわけではありません。

トークのなかで「学ぶことって何ですか?」と問われた落合先生は、「さあ机に向かって本を開いて、これから学ぶぞ、というキューが出るわけでもない。息していることも学ぶことのような気がしている」と答えます。藤原もまた「土いじりすることも、キッチンに来て包丁を持たせて魚を捌くことも、すべてにおいて学びがありますよね。教科書に載っていることだけが学ぶことではない」と共感しました。

このやりとりは、特別な教育者でなくとも、誰もが独自の経験を経て「いま」にいたっていること、つまり、あらゆる人のこれまでの人生も、人格も、「学び」と地続きにあることを浮かび上がらせます。

しかし、落合先生は「我々は自由に学んでいるように思うけど、ある種の枠にはめられている」と付け加えます。たとえば母語や、無意識に当たり前だと信じている常識。「我々が知らない間に当然と考えていることをもういっぺん見直してみる。普段見慣れているものを、わざと見慣れないようなものにすることで気づきが得られます」

この「学び」そのものをはじめ、自らの記憶を辿り、無意識の枠組みを疑ってみることが、自分自身と次世代とをつなぎ、変化の時代に「自由と責任」を発揮するための入り口になるのかもしれません。

「役立たずの私を、村は『対等』に迎えた」

マヤのフィールドから教育をつくりなおす:落合先生のスライド表紙画像

セッションの終盤、落合先生はもうひとつのキーワードとして「平等から対等へ」ということばを挙げました。その背景にあるのは、マヤの村での自身の姿です。

「私はマヤのツォツィル語をゼロから始めました。トウモロコシの作り方も全く知りませんでした。目上の人への挨拶の仕方も無知でした。ですから私は村では全く役立たずでありました」

言語も作法も知らないヨソモノ。村人と「平等(イコール)」な立場など求めようもなかった、と落合先生は振り返ります。それでも村の人たちは、困り顔をしながらも「そのうちできるようになるよ」という態度で、落合先生をひとりの人間として「対等(イーブン)」に扱ってくれた。そうして自分の役割を見つけながら、2年半をその村で暮らすことができたといいます。

「個人の独立自尊の根本にあるべきものは、他者との対等意識だろうと私は思っています。そのことを学んだのはこのマヤの村落でした」

人は出自も背景も競争の結果も、いつでも平等なわけではない。それでも、対等ではあり続けられる──。教える側と教えられる側、できる者とできない者という枠を越えて、互いを対等な他者として遇すること。それは次に紹介する、新たな学びの場の思想にもつながっています。

おわりに:「CU(See you)」──また出会い直すために

「正解があるわけではないからこそ、我々は問い続ける、話し続ける、考え続けることが必要かなと思っています」

セッションの終盤、藤原は自らのそんな想いを体現するべく、新たに立ち上げた教育特化のチーム「CU」を発表しました。かつてロフトワークが運営していた学びのプラットフォーム「OpenCU」の思想を受け継いだこのチーム名には、もう一つの大切な意味が込められています。

「CUには、『またお会いしましょう(See you)』という意味も含まれています。バイバイではなく、またお会いしましょう、という場を私たちは作っていきます」

落合先生と藤原の対話からも見えた、既存の枠を取り払い、多様な変数と交差する「越境」の学び。ロフトワークの教育特化チーム「CU」は、「学びとは、出会うこと」という思想から誕生しました。CUは、あらゆる現場で未来の教育をプロトタイプします。社会を変える問いを共に「カタチ」にしませんか。詳細やご相談は下記ページをご覧ください。

CU - Education Design Unit -  | Group | 株式会社ロフトワーク

落合先生と藤原の対談の様子3

【編集後記】「共謀的観客」という問いかけ

本セッション企画担当の青山です。最後に、このセッションの裏テーマについて触れさせてください。落合先生にご登壇をお願いした背景には、先生の著書『ラテンアメリカン・エスノグラフィティ』から受けた衝撃がありました。

植民地支配の痕跡を現代のカルチャーから描き出すその民族誌は、読み手(ヨソモノ)を安全な傍観者にしてくれません。読者は次第に現実の歴史や運命と向き合う緊張関係へと引きずり込まれ、演者(=作者)と入れ替え可能な「共謀的観客」として巻き込まれていく——そのような民族誌の可能性を落合先生は問いかけていました。

翻って、日本の教育はどうでしょう。セッションで議論された「親の過保護」や「偏差値重視」もまた、この社会の底に流れる歴史や文化規範と深く結びついています。ぼくたちが無意識に縛られている「当たり前」の枠組みを、人類学のレンズは浮かび上がらせてくれます。

教育の未来を考えるとき、大人はつい「子どもに何を用意すべきか」と安全な「教える立場」に立ちがちです。しかしながら、ぼくたち自身が既存の枠組みを疑い、現実の厄介さを引き受ける当事者になる可能性を本セッションは示唆しているように感じます。

正解のない問いの前で、解説者とリスナーではなく、共謀者として共に企み、またどこかで「出会い直す(See you)」。そんな日を楽しみにしています。

執筆・編集: 青山 俊之(株式会社ロフトワーク)
撮影:川島 彩水

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