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岩沢 エリ 2026.03.05

【連載】最近気づいていないことは何か?
#06|言葉は規格化された社会の抜け道になる

水先案内人:青田麻未(日常美学研究者)

ロフトワーク Culture Executive の岩沢エリが、各地で出会う実践者や現場から「社会の新しい兆し」を持ち帰り、これからの時代を読み解くヒントをお届けする連載「最近気づいていないことは何か? ― 多元世界探訪記」。

第6回目は、日常美学研究者の青田麻未さん。私たち一人ひとりの「ふつうの暮らし」を出発点に、美や価値、感性を考える学問「日常美学」を専門としています。日常を見つめるまなざしを少しだけ変えることで、私たちは何に気づき、何を問い直すことができるのか。青田さんにお話を伺いながら考えます。

青田・岩沢のツーショット

岩沢エリ(以下、岩沢) ご研究されている「日常美学」はどのようにして生まれた学問分野なのでしょうか。

青田麻未さん(以下、青田) 従来の美学に不足していた、私たちの日常生活について語る言葉を見出していくために、2000年代後半頃に生まれた、比較的新しい分野です。

経緯を説明するためにまず「美学」についてお話しさせていただきますね。そもそも美学とは、哲学の一分野で、「美とは何か」「なぜ私たちはそれを美しいと感じるのか」を考える学問です。ただ長い間、その対象は芸術作品が中心でした。絵画、彫刻、音楽など美術館やコンサートホールにあるようなものですね。

青田近影

岩沢 芸術作品が中心だった美学が日常生活を対象にするようになったきっかけが何かあったのでしょうか。

青田 大きな転機の一つが、1960年代に生まれた「環境美学」です。当時、世界的に自然破壊への危機感が高まる中で「芸術の美については語れても、自然の美を語るための言葉を、私たちは持っていないのではないか」と議論されるようになり、誕生しました。

環境美学は当初、「原生自然」、たとえばアメリカの国立公園のような場所について議論してきました。しかし次第に、都市や里山といった、人の暮らしと切り離せない環境へと関心が広がっていきます。すると、「人は、自分たちが生活している場所を、どのように感じ、どのように経験しているのか」という問いが立ち上がってきました。

その流れの延長で、2000年代後半から議論されはじめたのが「日常美学」です。つまり日常美学は、芸術中心だった美学が、自然へ、環境へ、そして生活そのものへと視野を広げてきた結果、現れた分野だと言えると思います。

岩沢 「日常にも美がある」という話ではなく、これまで美学が見ようとしてこなかった“生活の感覚​​”そのものを、学問として扱えるようにする試みなんですね。青田さんは、なぜ日常美学を研究するようになったのでしょうか?

青田 きっかけは、コロナ禍での妊娠と出産でした。それまでの私は、海が好きだったこともあり、環境美学の研究に取り組んでいました。

研究室の本棚
手前から2冊目、2020年に刊行された青田さんの著書『環境を批評する 英米系環境美学の展開』(春風社)。環境をどのように「美的に」捉え、語ることができるのかを問い直す一冊。

論文を書き、本を出版してひと区切りがついたタイミングでコロナ禍になり、同時に出産を経験したんです。

それまで生活のことは二の次で、ひたすら研究に没頭する日々でしたが、状況が一変。外出が制限され、育児を中心に家で過ごす時間が増えていく中で、だんだんと「生活すること」そのものに意識が向くようになります。日々の暮らしで感じたことや考えたことを記録しながら、理論として組み立てることはできないだろうかと考え、日常美学に本格的に取り組みはじめます。そして、まとめたのが『「ふつうの暮らし」を美学する──家から考える「日常美学」入門』(光文社新書)です。

「生活の記述」からはじめる

岩沢 日常を対象にすることで、美学とは研究のアプローチも異なるのでしょうか。

青田 共通点ももちろんありますが、私は違う点も大きいと考えています。一番大きな違いは、生活の観察から始める点です。

美学では、まず哲学者が理論を立て、その枠組みで対象を読み解いていくという方法が主流です。しかし日常美学は、その方法だとこぼれ落ちてしまうものが多いんです。生活は人によって住んでいる場所も、家も仕事も、まったく違いますから。あらかじめ決められた理論を当てはめられないんです。

そこで日常美学では、まず一人ひとりの生活を丁寧に観察し、「どのように暮らしているのか」を言葉にすることから始めます。その記述を積み重ねる中で、見過ごされてきた感覚や価値のあり方を見つけ出していく。こうしたアプローチは、美学という学問の進め方そのものを問い直すことにもつながっていると思います。

岩沢 なるほど。

青田 日常美学でいう「記述」は、研究者だけの方法ではありません。誰もが自分の生活に対してできるものです。

対話している写真

岩沢 生活を「記述する」ことで、私たち自身にはどんな変化が起きるのでしょうか。

青田 自分の生活を、少し距離を取って見られるようになります。日常生活は、ほとんど無意識のまま過ぎていきますよね。何を心地よいと感じているのか、何にモヤっとしているのかも、はっきりしないまま暮らしていることが多い。でも、一度立ち止まって記録してみると、「自分はここで引っかかっていたんだ」「これは意外と大事にしていたんだな」と、それまで意識していなかった感覚が浮かび上がってきます。その例として、私はよくVlogの話をします。

岩沢 食事をつくる、掃除をする、散歩をする、といった何気ない日常のルーティンを映し出している動画ですよね。

青田 そうです。私は趣味としてよくみているのですが、Vlogというと「丁寧な暮らし」や「憧れのライフスタイル」を見せるもの、という印象があるかもしれません。でも私が注目しているのは、そこに映っているその人なりの時間の使い方や、空間との付き合い方です。

岩沢 面白いですね。その人の日常の“癖”のようなものを見ていらっしゃる。

青田 Vlogを撮ることには、撮影者が日常との距離をとって、客観的に自分の暮らしを見つめ直す効果があるように思うんです。「今日は何を撮ろう」と考えるだけでも、自分が普段どこに時間を使い、何を大事にしているのかを意識するきっかけになります。それまで無自覚だった日々の過ごし方や物の選び方が意識の俎上に上がる。すると、生活のリズムや振る舞い方が、少しずつ変わっていくこともあるのではないかと思うんです。

岩沢 撮影する、つまり記述することが、自分の感覚や選択を一度可視化する装置になっている、ということですね。

青田 Vlogのように映像で残すのもそうですし、写真でも、文章でもいいんです。うまくやろうとか、誰かに評価されようとするのではなく、まずは自分の生活をそのまま記録してみる。そうすると、意識していなかった「何を心地よいと感じているのか」や「どこで引っかかっているのか」が、あとから見えてくるんです。このような、誰でもやってみようと思えばできるような生活の観察から、美学の言葉を立ち上げることもできる。そこに日常美学の実践的な面白さがあると思います。

不快を手がかりに社会が決めた「良し」を疑う

岩沢 記述していくと、「自分は何を理想として刷り込まれていたのか」に気づくこともありそうです。

青田 そうですね。私たちは、自分で選んでいるつもりでも、実は社会の側から「これがいい」「これが普通」と示されてきた価値観を、知らないうちに内面化していることが多いんです。

たとえば、不恰好な野菜は味に問題がなくても捨てられがちですよね。そこには、「形が整っているものがきれいで正しい」という基準があります。社会を円滑に回すためには、ある程度の基準やシステムは必要ですが、そのなかで知らず知らずのうちに「感性が規格化」されているんですね。

岩沢 「感性が規格化」ですか……。よく考えてみると怖いですね。自分の感じ方そのものが、気づかないうちに形作られているわけですよね。そのことに無自覚だと、自分で考えることがなくなってしまいそうです。

青田 まさにそうなんです。日常美学の研究者ユリコ・サイトウは、広告や都市景観などを通じて、「これがかっこいい」「これが正しい」という凝り固まった理想が社会に浸透していると指摘しています。そして、まずはその価値観をいったん疑うところから思考を始めるべきだと述べています。

岩沢近影

岩沢 私も、「自分は思っていたより、パッケージ化された生活をしていたんだな」と気づいた経験があります。以前、有機野菜やコンポストのある暮らしに挑戦してみたんですが、野菜の使い方に迷ったり、コンポストの管理に気を配る必要があったりして、続けるのが思った以上に難しかったんです。

私たちの暮らしは「回ること」を前提に設計されているということに気づいて少し怖くなりました。スーパーには一年中同じ野菜が並び、ゴミの出し方の段取りも決まっている。自由に選んでいるつもりでも、実は選択肢そのものが、社会の仕組みによってあらかじめ用意されているんですよね。とはいえ、自分の感性が規格化されていることに気づくのは、簡単ではなさそうです……。

青田 私は、日々の不快感を手がかりにするのがいいと思っています。私たちは「いいもの」や「正しいもの」には慣れてしまって、それが当たり前だと感じるようになります。ですが、不快なものには比較的すぐ気づけると思うんです。

たとえば、便利なはずなのに使っていて疲れてしまうサービスに違和感を覚えることや、駅や電車の中で絶えず流れる映像や広告に落ち着かなさを感じること。そうした違和感に立ち止まることで、「なぜこれが当たり前とされているんだろう?」と、感性が規格化されてきた前提に目が向くんです。

岩沢 美学というと「美」や「快」を探すイメージがあったので、「不快」から考えるという方法もあるんですね。でも、規格化されていることに気づいたところで、大きなシステムの中に存在する私たちは結構がんじがらめなんじゃないか、という気持ちにもなります。

青田 そうですよね。ただ、救いもあって、感性が規格化されていても、一人ひとりの受け取り方の余地は残されているんです。

フランスの思想家ミシェル・ド・セルトーは、社会のシステムやルールを「戦略」と呼び、それに対して“なんとかやっていく”ために私たちが日常の中で編み出す小さな工夫を「戦術」と呼びました。同じものを与えられても、何を見るか、どう受け取るかは人それぞれで、その使いこなし方そのものが創造的な行為だと言っています。

岩沢 つまり、仕組みそのものから完全に自由になるわけではないけれど、与えられた条件をどう使い、どうやりくりするかは、それぞれに委ねられている、ということなんですね。

青田 たとえばマンションの部屋って、どこも似たような間取りですよね。でも実際には、家具の配置を工夫したり、本来とは違う用途で使ったりしながら、住む人それぞれが自分なりの空間をつくっています。

だから、規格化されているからもうどうしようもない、ということではないと思うんです。まずは「私はここで引っかかっているんだな」と気づくこと。そこから、当たり前と距離を取る視点が少しずつ生まれて、「じゃあ次はこうしてみよう」という一手が浮かびやすくなると思います。

言葉を増やすことで日常への感度をあげる

岩沢 不快を掘り下げていく、というお話がありましたが、日常の感覚って、言葉にしようとしても、ぴったりくる表現がなかなか見つからないことがほとんどです。

青田 それは個人の表現力の問題というより、日常を考えるための言葉そのものが、社会の中で十分に育っていないからだと思います。

芸術の世界には、長い時間をかけて言葉が蓄積されてきました。それは批評家による功績が大きいです。とりわけ20世紀の現代アートは、批評家による解釈なしには成立しなかったとも言われています。

たとえば、アメリカの画家、ジャクソン・ポロック。床に置いたキャンバスに絵の具を垂らして描く「アクション・ペインティング」という手法で知られていますが、一見すると子どもが絵の具を垂らしただけに見える。でも批評家たちが「この絵の何が革新的なのか」「どう見るべきなのか」を「平面性」や「媒体固有性」といった概念を生み出しながら語ったことで、作品の見方が共有されていきました。言葉が与えられたことで、初めて価値が見えるようになったんです。

青田近影

岩沢 言葉が、見方そのものをつくったということですね。

青田 でも日常生活については、そうした言葉がまだ少ない。「嫌だな」「モヤモヤする」と感じても、それ以上の言葉がでてこなかったり、「自分の気にしすぎかな」と片づけたりしてしまう。日常美学の役割は、感覚を捉えるための言葉を、少しずつ増やしていくことだと思っています。

岩沢 言葉を増やしていくために、青田さんはどのようなことが必要だと考えていますか。

青田 いろいろな人が日常美学に関わることだと思います。私自身は自分の生活を起点に問いを立てていますが、見ている日常は私の生活でしかない。同じ「日常」でも、立場や環境が違えば見えてくるものは全然違いますよね。だからこそ、いろいろな人が自分の生活から考えることで、言葉も少しずつ増えていく。研究者に限らず、関心を持つ人が増えていくといいなと思っています。

岩沢 言葉が増えることで、私たち一人ひとりのものの見方は、どう変わっていくのでしょうか。

青田 正直、変わるかどうかはわかりません。哲学や美学は、「こうすればよくなる」という解決策をすぐに示せる学問ではありませんし、変化を確約できるものでもない。でも、社会で当たり前とされている「善さ」や「正しさ」に対して、「それは本当にそうなのか」と問いを投げ続けることはできる。それは研究者だけの営みではなくて、「おかしいのでは」と感じて言葉にする人は誰でも、ある意味で哲学をしているんだと思います。そういう人が増えて、それぞれの感覚から問いが立ち上がっていけば、少しずつ何かが動き出すこともあるのかなと思っています。

青田近影

執筆・撮影:佐々木まゆ

青田麻未(日常美学研究者)

上智大学文学部哲学科助教。専門は環境美学・日常美学。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得後、退学。博士(文学)。著書に『環境を批評する 英米系環境美学の展開』(春風社)、『「ふつうの暮らし」を美学する 家から考える「日常美学」入門』(光文社新書)、『アイドル・スタティーズ 研究のための視点、問い、方法』(共著、明石書店)など。

今回お話を伺うきっかけになったご著書はこちら。

「ふつうの暮らし」を美学する 家から考える「日常美学」入門
光文社新書
990円(税込)

よりよい“世界制作”のために、私たちの家を考えよう――。日々の暮らしを支える活動やモノを通じて「美」を捉える「日常美学」は、哲学の一分野である「美学」の中でも、とりわけ新しい領域。これまでの美学は、日常から離れた「芸術」を主な対象とし、家や暮ら しにまつわる事象を無視してきた。しかし、私たちは日々の生活の中でも「美」や「快」を感じながら生きており、その時にはたらく感性が音楽や美術を感じるときより低級だとは言え ないはずである。椅子、掃除と片付け、料理、地元、ルーティーンなどの具体例を通じて、私たちの感性、そして世界を見つめ直す「日常美学」の入門書。

インタビューを終えて:あとがき

4年前に、土の可能性を探究する中で出会った、堆肥づくりの匠と称される有機農家さんが「農業も土づくりも、感性なくしておいしい野菜・いい土はつくれない」と話してくれた。彼は、研修生に野菜や土づくりを教える過程で、生け花にも取り組ませる。知識や技術だけでなく、自然を目の前に、全身の感性を呼び覚まして「自分が美しい」と思うものに気づくことの訓練が重要だという考えからだ。

以来、「美しい」と思うことは、「特別な感覚」というよりも、仕事や生活そのものの、世界の捉え方なのかもしれないと思うようになった。

『「ふつうの暮らし」を美学する』という本を見つけた時、4年前に漠然と思ったことに、名前がつけられた感覚があった。そうそう、「ふつうの暮らし」を美学したかったのだ!と。そうして青田さんとお話しした上で、私が印象的だったのは3つ。

1つ目は、「感性の規格化」という言葉。規格化、バラバラだったものに一定のルールを用いて、共通の定義で「標準」をつくりだす。これは、製品を工場生産するのに欠かせないプロセスですが、その「規格」をさらに「みんなにとって、美しいもの」と認知・周知していく活動も合わせることで市場を発展してきた。それはすなわち、感性も規格化してきたと考えると、一方で私たちは「わたしにとって、美しいもの」を選ぶ経験の積み重ねを知らず知らずに手放してきていたとも言える。

2つ目は、ささやかなルーチンや日常行動を「記録すること」を通じて、自身の感性に気づくこと。「感性の規格化」から脱するには、まず自分がいまどんな行動をしているのか。何を選択してきているのかを客観的に知る必要がある。そのために、「記録」が役に立つ。「記録」は、自分の感性を取り戻すための、リハビリの一歩目みたいなものなのかもしれない。

3つ目は、「工夫する」こと。生活に目を向けると、個人だけで変えるには難しいことも溢れています。政治や法律、社会規範や風潮。駅のプラットホームにある広告は止められないし、スーパーの品揃えや大規模マンションの構造を根本から変えることも難しい。でも、自分の身の回りで工夫できることは実はたくさんある。

これらは、普段からわたしたちが実践している未来構想のためのプロセスとも重なるところが多い。感性の規格化は、無意識の社会規範や価値観とも重なる。生活の観察を通じて、まだ言葉になっていないあたりまえを捉える。いまあるものを工夫して、ありたい姿をかたちにし続けることで、既存のあたりまえを更新する。普通の暮らしを美学するとは、生活者の視点から、暮らしたい社会を創造するための感性を鍛える学問なのかもしれない。

青田・岩沢ツーショット

【連載】最近気づいていないことは何か? ー多元世界探訪記

序論|最近気づいていないことは何か? 多元世界探訪記

#01|伊藤光平(株式会社BIOTA 代表取締役)
見えない生き物たちの存在から未来を感じ取る

#02|平川克美(文筆家/「隣町珈琲」店主)
「株式会社」の起源と仕組みから、人口減少時代における企業の生き延びる道を考える

#03|ヒダクマが育む飛騨の森の共創エコシステム
森の価値を探求する「味方」を増やし、多様な「見方」から芽生えるイノベーション

#04|羽鳥達也(執行役員/設計監理部門・設計グループ代表)
人口減少時代の「動くインフラ」と“逆転の開発”

#05|津川 恵理(ALTEMY代表)
都市は〈滞在〉でおもしろくなる

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